その時あなたは何してた?: 1998年 参院選自民惨敗 橋本首相退陣
Z世代の方にとっては、物心ついた頃には、沖縄の普天間基地の返還・基地移転は決まっていました。その始まりは橋本内閣でした。。。
1998年の新語流行語大賞は3件、まずは「ハマの大魔神」受賞者は佐々木主浩(横浜ベイスターズ)。次が「凡人・軍人・変人」受賞者は、田中真紀子(衆議院議員)。最後が「だっちゅーの」受賞者はパイレーツ(お笑いコンビ)でした。
主な出来事は、クリントン、アメリカ大統領の不倫疑惑騒動、長野オリンピック開催、サッカーワールドカップに日本初出場、和歌山毒物カレー事件、「ウィンドウズ98」発売、中田セリエA・ペルージャ移籍、北朝鮮テポドン発射、松坂擁する横浜が春夏連覇、黒澤明が死去、マグワイアが70号で本塁打新記録、横浜ベイスターズが38年ぶりの日本一などでした。
1998年:「参院選、自民惨敗、橋本首相退陣」
1996年に自民党単独内閣を復活させ、「行政改革」、「財政構造改革」、「経済構造改革」、「金融システム改革」、「社会保障構造改革」、「教育改革」の六大改革を提唱した橋本内閣。
人口減少社会への備えが必要な時期に必要な改革だったのではないかとじーじは思っています。
1997年 11月に財政構造改革法(財革法)が成立しました。同法では、国・地方の財政赤字を対 GDP比で 3%以下にするなどの目標が掲げられていました。
ところが、同月北海道拓殖銀行、山一證券、徳島シティ銀行の経営破綻が起こりました。
同法は、すでに不況が深刻になっていた最中に、景気対策の足かせになることから橋本政権後に発足した小渕政権の下で、わずか一年で凍結されてしまいました。
国の借金である国債発行残高は、財革法制定当時よりも、今日格段に膨れ上がっています。ただ、それが最重要の問題かというと歴史が語るとおり、膨れ上がること自体が問題でなく、税金の使い方だということが分かってきています。
橋本政権下での相次いだ金融破綻は、その後の政界のパワーバランスをも大きく変え、霞が関の官僚主導の秩序を揺るがし、政治主導の流れを決定的なものにしました。
官邸主導の走りとなった小泉純一郎政権に向かう原点は、1997年秋の金融危機だったのではないでしょうか?
さて、不運な情勢であったとは言え、1998年の参議院選挙での敗因は、橋本首相自身にもありました。
過半数の65議席の獲得が厳しいとの情勢報道を見て,それまでやらないと言っていた「所得税の恒久減税」に前向きな姿勢を示したことが、露骨な選挙目当てと捉えられ、参院選惨敗、退陣という結果になりました。
橋本内閣で目指した6つの改革と共に、特筆すべきは、沖縄の普天間基地返還の日米合意でした。
1995年 9月に発生した沖縄県における米兵による少女暴行事件を発端として、沖縄の普天間基地反対運動が広がっていました。
日米会談を前に、1996年1月、橋本首相は、沖縄関連の文献を読みあさりました。訪米前の段階は、官邸に呼んだ外務・防衛の担当者に「普天間基地の返還をどう思うか」と聞いても、日米同盟重視を理由に、否定的な反応だったそうです。
しかし、1996年2月23日、米西海岸のサンタモニカで、初の日米首脳会談に臨んだ際にクリントン大統領から予期せぬ一言が投げかけられました。「沖縄の問題で、何か言い残したことはありますか?」
この投げ掛けに橋本首相は、「難しい問題だと承知しているが、普天間を返してほしいというのが沖縄の強い希望だ」と答え、沖縄の米軍基地縮小問題の象徴的な存在であった「普天間」をテーブルにのせました。
それから約1カ月半の交渉を経て返還合意に至りました。
4月12日、橋本首相は官邸で駐日アメリカ大使のモンデールと並び「5年から7年のうちに全面返還」との合意を発表しました。
執務室に戻った橋本首相は、電話で、県知事の大田昌秀氏に改めて「沖縄の皆さんが、喜んでくださると信じている」と伝えたそうです。
しかし、基地返還の前提となる代替地を巡る調整は難航し、未だに普天間基地返還は完了できていません。
四半世紀もの間、実現できない普天間基地返却、沖縄の方には本当に気の毒なことだと思います。
後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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