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【京都からだ研究室⑥】韓氏意拳から学ぶ本来の自然とは〜瞑想そして「自然法爾」へ〜

2022年京都からだ研究室後期の振り返りです。
運営メンバーとして参加するなかで感じたこと、そして仏教へのつながりを書いておきたいと思います。

今回の講師は前期に引き続きバランストレーナーの小関勲先生。

春に、小関先生からヒモトレとバランスボード について教わり、そこからヒモを巻いて生活したり、バランスボードに座って作業してみたりと、身体の整いを感じてきました。
2022年前期の振り返りnoteはこちら↓

今回のテーマは『韓氏意拳から学ぶ~自然観~』
自然とは何かを、自分自身のからだを通して見つめていく時間でした。

韓氏意拳は、勝ち負けや優劣を競うものではなく自己の整いに注目するという中国武術。シンプルな運動を通して、自己を丁寧に観察していくという稽古をしていくというのが今回の趣旨です。

武術なのに、戦わないというのは驚きですよね。

第1回目のワークショップ、はじめにホワイトボードに見たこともない漢字がずらっと並ぶのですが・・・。

小関先生がはじめに書かれた意拳の特徴がこちらです。

型がない  

力を使わない 

リズムを取らない

繰り返さない

イメージをしない


学校の体育をはじめ、スポーツや体操など身体を使って学んだ記憶を思い返すと、「え?」と思ってしまうような、これまで持っていた考え方をひっくり返されるような特徴が並びます。

まずは初級の形体訓練

手を前後に振ったり、上げたり下げたり、動き自体は一見真似しようと思えばできてしまうんですが、でもそのうち、それは形を真似するのではないということがわかってきます。

ダンスや芸事では、美しい姿勢や形を目指してレッスンやお稽古をするわけですが、そういった外見の美しさを目指しているのではないという・・・これまでの価値観が揺さぶられます(結果的に整うと美しく見えるのですが・・・)

シンプルな動きですし、形だけ真似すれば何度でもできてしまうので、つい気を抜くと繰り返して動いてしまう…その度に意識を戻すようなそんな意識や注意の微妙なところを言ったり来たり…。

頭から指令を出して腕をあげようとするのではなく、自然と手が上がってくる。

りんごを取ろうとして、手を伸ばす動作を意図を挟まずに自然にする。

これがなかなか難しいんです。ちゃんとやろうとすると余計に力が入って自然体からは遠のいていきます。なかなか奥深い・・・。


2回目のワークショップは形体訓練に加えて站椿(たんとう)。

站椿(たんとう)は「杭を打つように立つ」「立禅」と言われたりもしますが、地に足がついているんですが、力みがあるわけではなく自然にただ立っている状態。

とにかくこれもまた究極。
均等に保たれた絶妙な状態にはなかなか至れず、さまざまな感覚をキャッチしてみて適当な位置をゆらぎの中でみつけていく感じです。

小関先生は手を添えながら、バランスの取れた状態、力を入れるのでもなく抜けすぎているわけでもない微妙な塩梅のところをサポートしてくれます。

ほんとうに自然に手が上がった時、自然に立っている時は、気持ちがよくてずっとこのままでいたいと思ってしまうほど。

いかに普段、力を入れて身体を動かそうとしていて、不自然な動きになっていることがわかります。

会場の空気は、それぞれ自分の身体に目を向けながら…意識しすぎないことを保ちながら…
静けさの中に、ほどよくピンと弦が張られたように集中した気を感じました。

シンプルな運動を通して自己を丁寧に観察するというのは瞑想と似ているかもと小関先生がおっしゃっていて、韓氏意拳のお稽古を実際に体験してみてなるほどと思いました。

瞑想や坐禅など呼吸を意識して静かな時間を過ごす場合も、何か意図して得ようとすると力んだり、緊張が入ったりします。
呼吸を意識してみようとすると一気に不自然になって呼吸しにくくなるという経験をされた方もいるのではないでしょうか?

観察しずぎると体験と分離する。からだはぼやけるくらいがちょうどいい。

半眼でみるというかんじでしょうか。

姿勢については、座る時に縦軸を作って・・・と言いたくなりますが、

軸だけ取り出すことはできない。
軸があるのではなく、動きの中に自然と軸ができてくる。

禅僧藤田一照さんが、坐禅を指導される際に、「背骨を真っ直ぐにするではなく、おのずから調ってくる。」とおっしゃるのもまさにですね。


小関先生がテーマとしてあげていた「自然」というワード。老荘思想 無為自然という用語も出されていました。

自然と聞くと仏教用語としての「自然(じねん)」が浮かびます。

親鸞聖人が晩年に「自然法爾」という言葉を残されています。

親鸞聖人のいう自然とは、「おのずからしからしむる」と読んで、自力をすてて、如来の絶対他力にまかせきることとしました。

自分のはらかいを捨ててありのままにゆだねていく、人間の力をまじえない自然なはたらきのこと・・・つまり他力、阿弥陀如来の本願力ということ。

すでに自然に起こっているものを受け取っていく。
意拳の稽古は、おのずからそうあるという身体の動き、はたらきを感じることにつながっていくと思いました。

私たちは、本来自然体でいられるはずなのに、いろんなものがくっついてきてしまいます。それをちょっとずつ外して、一息。
そのことに気づかされる。そんな日々なのだと思います。

私たちが思う自然は本来の自然とは違っているのかもしれません。

自然を感じるということは、そのままありのままであることを受け取ることだと・・・体感を通して少しだけ触れられたような気がします。

親鸞聖人はそれを阿弥陀さまのはたらきであると感じ取られたのだと。
南無阿弥陀仏を称えることで一息・・・生かされて、生きていたことをふと思い出すのかもしれません。

合掌
南無阿弥陀仏


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