「等価」の概念は、翻訳学に社会学を適用することで、どう変わったか?
はじめに:
本エッセイでは、翻訳学において重要な概念である「等価」の概念が社会学の適用によってどのように変化したかについて書きたい。等価とは、原文と訳文の価値を等しくする行為のことであり、「何を等価と捉えるか」は、翻訳学において古くから扱われる主題である。今回は特に、翻訳のプロセスにおける社会的な側面を探求した、ゴウアンヴィックの論文Jean-Marc Gouanvic (2005), “A Bourdieusian Theory of Translation or the Coincidence of Practical Instances”を取り上げる。ゴウアンヴィックは、ブルデューの概念である「フィールド」「ハビトゥス」「イルーシオ」を用い、翻訳学の研究を進めた。これにより、社会学と翻訳学を融合させ、翻訳において新たな理解と枠組みを提供する可能性を提示した。今回は、ブルデューの理論が等価の研究にどのように影響を与えたのかを検証したい。
第一章:社会学的アプローチ
1.文学のフィールドと翻訳
2. ゴウアンヴィックの結論とイルーシオ
第二章:翻訳学的視点
1.多元システム理論(イーヴン・ゾウハー)
2.規範(トゥーリー)
3.社会学の適用
おわりに:
引用・参考文献一覧:
第一章:社会学的アプローチ
ゴウアンヴィックは、ブルデューの社会学的概念を翻訳学に応用し、翻訳者の性質や社会的背景が翻訳プロセスに与える影響を明らかにしようと試みた。具体的には、19世紀から20世紀のフランスで翻訳されたアメリカ文学の例を通じて、ブルデューの理論を用いた社会学的分析を行い、その中で「フィールド」「ハビトゥス」「イルーシオ」といった概念を適用した。『翻訳学入門』によると、社会学的分析は、「これまでの理論では残念ながら扱われなかった翻訳者の役割を理論化する手段として」、「より決定論的ではない選択肢として、何人かの研究者が使っている」(マンデイ 2018, p258)。そしてゴウアンヴィックは、最適な翻訳とは、原作のイルーシオ(美的快楽の前提条件となるフィクションへの信奉)を再生することである(Gouanvic 2005, p164)と結論付けた。これは、等価の概念にとっても重要な流れであり、「等価とは、同じイルーシオを持つこと」と定義されたとも考えられる。このように、社会学が等価にとって、どのような変化をもたらしているのかを詳しく見ていきたい。
1.文学のフィールドと翻訳
ピエール・ブルデューは、人々が望ましい資源を求めて行動し闘争する、歴史的な、非均質な社会的・空間的な場を「フィールド(仏:champ)」と定義した。また、フィールドに存在する特有の論理は、ハビトゥスという形で確立され、これは徐々に、漸進的に、そしてほとんどの場合、気づかれないうちに進行する。ゴウアンヴィックは、このフィールドの概念を翻訳学に適用した。
例えば、フランス文学界における法的な問題に着目し、どのような要因がフィールドを形成しているか分析している。特にヘンリー・ミラーの例をとり、アメリカ文学とフランス文学の場の形成や検閲についての分析が行われた。1920年から1939年のパリでは、アメリカ文学の制約された領域がアメリカ本国での文学の形成と同時に発展していった。アメリカにおいてもフランスにおいても、文学界の外部に存在する検閲から解放されたいという願望が広まり、検閲の権利を文学界にシフトさせるための闘争が行われた。さらに、第二次世界大戦が終結すると、フランスではアメリカ化への抵抗が生まれたとする。
そして、文学のフィールドの存在は、翻訳の重要な要素であると主張している。20世紀のフランス文学界では、外国文学作品の翻訳とその出版が文学分野の自律性に影響を与えた。19世紀には翻訳文学は一般的なシリーズに取り込まれていたが、20世紀に入り、外国文学の専門的なシリーズが設立され、翻訳版が特別に扱われるようになった。ゴウアンヴィックは、19世紀には存在しなかったフランス文学のフィールドが20世紀に出現したとする。これらは、作家とその作品の権利を巡る権力闘争の指標であり、分野がますます自律的になりつつあることを示唆している。
文学界の闘争の場(フィールド)の状況は、等価にどう影響するだろうか。例えば19世紀のフランスにおけるアメリカ文学の翻訳は、著者の権利を尊重したものとは言えず、出版社との契約なしに行われたものも数多くある。著作権を尊重することの是非を除いて考えれば、訳文において何を重要視するかにおいて、翻訳者の自由が広く担保されている。フィールド内ではハビトゥスの確立が進行し、ゴウアンヴィックは、翻訳者の実践においては、規範に合致させるための戦略を意識的に選択することはほとんどなく、その選択は無作為で主観的なものであると主張した。翻訳者のハビトゥスは、意識的な戦略ではなく、文学分野で身についた独自の影響を反映しており、例えば特定の文学ジャンルや分野において独自のアプローチを取ることが示されている。ゴウアンヴィックによると、等価を翻訳者それぞれがどう捉え、何を「同じ意味の言葉」として選択するかは、翻訳者の無意識の主観に委ねられている。このようにフィールドの状況は翻訳者の無意識に働きかけ、等価の解釈の自由度を規定する。
2. ゴウアンヴィックの結論とイルーシオ
ゴウアンヴィックは、結論として翻訳者は文学的なイルーシオを再生することが課題であるとし、これが対象文化における新たな社会的未来をどのように方向づける、と示唆した。フィクションの土台がイルーシオ、つまり文学というゲームを信奉することで成り立つことが示唆され、翻訳者は原作のイルーシオを目標文化に再生させる役割を果たす。特に、翻訳はフィクションのゲームを信奉する読者が経験する「自発的な不信の一時停止」を誘発し、原作特有のイルーシオを再現することが求められる。異なる文学ジャンルや分野において、翻訳者は原作のイルーシオを忠実に再現し、その中で特有のルールや論理を再解釈する必要がある。翻訳の難しさは類似と相違の相互作用にあり、異なるジャンルや分野におけるイルーシオの忠実な再現が挑戦的な課題である。このような場面では、原作と似ている部分が、原作と異なる部分よりも重要になることがあり、等価は、むしろ似ている部分を捨てることで行われることもある。あるフィールドで獲得したハビトゥスを備えた翻訳者の行為においてのみイルーシオは再生され、等価は存在できる。
以上のように、ブルデューの理論の社会学への適用は、翻訳者の役割と社会状況の間の相互作用に注目している。特に、翻訳者はイルーシオを再生するために存在する、というこれまで扱われなかった翻訳者の役割を理論化する手段として、従来の理論の枠組みに取って代わる。翻訳者を著作物と違う言語を持つ国においても、フィクションというゲームの基盤を支え、等価を再生する不可欠な存在として規定することに成功した。
第二章:翻訳学的視点
次に、翻訳学によって用いられた従来の理論とゴウアンヴィックによって適用された社会学的概念の違いに注目したい。具体的には、多元システム理論・規範とハビトゥス・フィールドの違いを考察する。このことで、社会学の適用が等価にもたらした影響を比較的に分析する。
1. 多元システム理論(イーヴン・ゾウハー)
翻訳学入門によると、ブルデューの理論は、これまで扱われなかった翻訳者の役割を理論化する手段として、多元システムの枠組みに取って代わる。イーヴン・ゾウハーの多元システム理論は翻訳文学を目標言語の文化的・文学的・歴史的システムの一部とみなす。そして、さらに、翻訳すべき作品を選ぶ仕方・翻訳の規範が他のシステムから影響を受ける仕方において、翻訳文学は、ひとつのシステムとして機能することを強調した。ゲンツラーは、これにより、文学そのものを社会的・歴史的・文化的な力とともに考察でき、テクスト単独で研究することから離れることができるとし、テクストの歴史的・文化的状況に従って、等価の非規定的定義と適切性という概念が変化することの追跡を可能にすることに強みがあるとした。
2. 規範(トゥーリー)
トゥーリーは記述的翻訳研究(DTS)の方法論を提案する。これは翻訳のプロセスにおいて作用する「規範(norms)」を理解し、翻訳の一般的「法則」を発見するための非規定的な手段である。テクストを目標文化システムの中に位置付け、意義・受容性を見る・STとTTを比較してシフトを見出し、「対応ペア」の関係を見つける・一般化を試み、翻訳プロセスを再現する、という3段階の方法論がある。また、規範の定義として、あるコミュニティが共有している一般的価値を、特定の状況にふさわしく、適用可能な作業指示に翻訳したもの、として、規則と特異性の中間においた。これは、規範が等価のタイプと程度を決定する、とした。また、翻訳の「法則」として、目標言語の習慣的なオプションが支配的になる標準化進行の法則と、起点テクストの言語的特徴がコピーされる干渉の法則を挙げた。
3. 社会学の適用
基本的には、社会学の適用も、社会と翻訳者との相互作用として翻訳行為を取り上げる姿勢は踏襲していると考えられる。しかし、ブルデューの理論は、これまでの理論では扱われなかった翻訳者の役割を理論化する手段として、多元システム・規範の枠組みに取って代わる。ゴウアンヴィックは、翻訳者が目標文芸フィールドにおいて習得したハビトゥスが語彙並びに韻律的選択に影響する、と主張する。このような翻訳者の行動・選択の原因も、主に言語学的視点から行われてきたが、社会学が新たな視座となっている。特に翻訳者の役割を行為者同士の相関関係から研究し、翻訳プロセスの性質に関する仮説の基礎を提供できる。等価の概念にとっても、翻訳者の無意識の選択が強く影響していることを示唆したことは大きな収穫だろう。
おわりに:
ゴウアンヴィックは、ブルデューの社会学的視点は翻訳学において適用可能であり、翻訳者の役割を多数の要素から分析した。最適な翻訳は、原作が起点文化において生み出していたイルーシオを再生させること、その著作物が持つフィクションへの信奉(究極的には美的魅力)を目標文化にもたらすことで、新しい社会的未来を指向する手段となることを示唆した。基本的には、従来の理論のように、翻訳行為をコミュニティ内の相互作用として捉える姿勢を踏襲しているが、等価の概念をどう捉えるかは、目標文化特有のハビトゥスを持つ翻訳者に左右され、テキストの選択が無意識に行われる可能性を示唆した点で重要であると考えられる。
引用・参考文献一覧:
Jean-Marc Gouanvic (2005), “A Bourdieusian Theory of Translation or the Coincidence of Practical Instances” in The Translator, Routledge, volume 11, pp. 147-166
ピエール・ブルデュー、石井洋二郎 訳 (1990)『ディスタンクシオン』藤原書店
ジェレミー・マンデイ、鳥飼玖美子 監訳 (2018)『翻訳学入門』みすず書房
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