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【エッセイ】自分の幸せは自分で決める。

人と会話をすることで
自分の脳内が整理されて
初めて自分の考えを自覚することがある。

今日は正にそれが起こった日だった。

度々私の記事に登場している後輩女子。

彼女との会話はなかなか刺激的だ。

刺激的過ぎて時々お互いに
何を話しているか
分からなくなる時もあるのだけれど。

本日の議題は

「伝えること」

「幸せ」

について。

タイトルを付けてしまうと
簡単に見えてしまうがとても深い内容だ。
(おそらく)

彼女曰く

察してくれの姿勢は良くないらしい。

何かが起こったときに
不満や意見を口にせず後から

自分はこういう感情だったのに

とか

あの時どうしてこうしてくれなかったのか?

と言われても困る。

そんなことは知らない。

他人の感情なんてわかるはずないのに、
どうしてそれを察して
正しい行動をとることが出来るだろうか。

思うことがあるなら言うべきである。

確かにそうだ。

私も最近このことを実感することが多々ある。

好きの感情も

嫌という感情も

こうして欲しいという希望も

全て言葉で発さなければ伝わらないのだ。

もちろんそれでも
伝わらないことだってあるだろう。

でも言葉にすれば
1%だとしても伝わる可能性はあるが
それすらしなければ確率は間違いなく0である。

分かっているはずなのに
私たちはそれが苦手だ。

謙虚で居ることや
自己主張しない事への美学
みたいなものが日本人の中には
こっそり存在しているように思う。

場の空気を乱してはいけない。

空気を読まなければならない。

察して先回りしなければならない。

それをやることこそが美しい。

確かにそれが必要な時もある。

社会の秩序を守るには
自己中心的に行動していてはいけない。

ただ、それだけが正解ではない。

たまには自己主張をしても良いし
わがままだって良い。

相手の気持ちが分からなくたって良いし
分かってあげる必要もない。

だって私たちは間違いなく
私達自身のために生きているのだから。

たくさんの人に囲まれた
社会の中で生きていると
本当の自分の意見がどれなのか分からなくなる。

自分の意見を殺して
他人に合わせ続ける。

他人の顔色を見て
機嫌を取ろうとする。

社会の常識に合わせて生きる。

好きな物

嫌いな物

正しい事

間違っていること

本当は全部自分で決めて良いはずなのに
いつの間にか誰かが決めた「普通」や
「幸せ」を追いかけていることがある。

最悪の場合そのことに
気が付かないで生きていることもある。

自分にとって本当に大切な物って
何なのだろうか?

他人が決めた常識の枠にはまって
自分の可能性を狭めてはいけない。

他人が決めた幸せを
自分の幸せと勘違いして生きてはいけない。

自分の「好き」と「嫌い」を
見失ってはいけない。

時々立ち止まって
本当の自分の感情がどれなのか
確認する時間が必要だと思う。

大切なものは持ったまま生きていける。

不要なものはどんどん捨てたって良い。

男だから

女だから

大人だから

子供だから

学生だから

社会人だから

自分で自分に言い訳をしないこと。

いつだって誰だって

何をしたってどこに行ったって

何を好きだって何を嫌いだって

良いはずなのだ。

そんなことを

教えてくれた

今日の会話

でした。

※散文すみません!

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