言いかけたことはほとんど意味がないけれど心の破片だったの
谷川電話・作
何も思わない、ということは出来ない。何かが起これば何かを思い、何か言葉が紡がれる。ただ、それを伝えるか否かというだけだ。自分に対しての信用がないから、基本的には自分が間違っていると考えている。だから一度、言葉を飲み込み、冷静になってから考え直そうとか、他の人に意見を乞うようにしている。それで本当に自分が間違っていたなら、良かった、いらん事言わんくて、で済む。しかし大体は合っている。
たった一つの発言でも、他人に与える影響は小さく無い。簡単に人は変わらないくせに、短期的にはすぐに変わる。だから全てを慎重にしてゆく必要があるし、今まさに、自分の中で引き起こっている様々な感情の誕生を蔑ろにすることを厭わない。心臓が周りの筋肉に絞られているような感覚になる。それに伴って体温は高くなり、手先足先は、手袋をつけたときのようにぞわぞわし始める。せっかくこの世に生まれた感情が発散されることのないまま、身体の中でうごめいている証拠だ。
堪らなくなって、何度も言いかける。よくよく考えてみれば、自分の発言が誰かを変える程の力を持っているなんて、考えていることがおこがましい。そんな力、少なくとも私には無い。なぜ当たり前のように、理解してもらえる前提で考えているのだろうか。自分にも他人にも期待してしまっていたけれど、やっぱりそうだよな、人は簡単には変わらない。し、変えられない。だから、私が発言したって、他人の未来はなんら変わりない。意味が無いんだ。何にも意味が無いんだ。私の一喜一憂なんて意味が無いんだ。だから我慢せずに言っても良いはずなのだけれど
手のひらを返して返して、時間は経つ。もたもたしている間に物事はどこかしらへ進んでゆき、私が言いかけて辞めた言葉の鮮度はとうとう落ちてしまう。もしそれが、本来なら言うべきこと或いは言っても良かったことであったとしても、今更言うのはこれこそ無意味である。こうして言葉となった思いや感情は、外に出されることが無いまま死んでゆく。私の一部だったものたち、私がこれまで自分なりに懸命に生きてきたからこそ、生まれたものたち、それが死んでゆく。自分で自分の価値を下げる。伝えなかった思いたちを、せめて弔う為にと文章をしたためる。大抵はこれ以降、外へ出ることはないのだけれど、
しかし、ここ数年(いや数ヶ月数日かもしれない)で考え方がガラリと変わった。他人に思いを伝えることは怖い。だからこそ、その「大抵」に留まらず、本当に伝えたいと思ってしまったことは必ず尊重したい。他人は変わらないかもしれない、変えられないかもしれない。けれど、ほんの少しでも可能性があるのなら、すぐに分かってくれなくても今後の為の何か抑止力みたいなものになりたいと、心を許した人に対してはそう思うようになった。後は、他者を思うことで生まれた、一度押し込めた感情や言葉の発散を、私にだってする権利はあるんじゃないかと思うようになったのだ。それは心の破片だからだ。私の心を割りやがってこの野郎、ふざけんな、私が何も考えていないとでも思っているのか、
逃げることを選びすぎて逃げ方しか分からないけれど、それなら逃げ道を増やしてゆこう。不快感、見せつけてやろうぜ
馬場光