2022年2月28日、住友商事を辞めた
2月28日、私は新卒から13年弱勤めた住友商事を辞めた。
就活を始める前から「商社マンになる」と信じていた学生・細田薫にタイムスリップして伝えたとしても、「将来、自分の意志で商社マンで無くなる決断をするよ」と言っても信じてはくれないだろう。
辞める理由は極めて前向きな理由だが、その決断に至るまで、そして至った後には色んなことがあった。「辞めたて」のこのタイミングで、それらを綴ってみる。
本編を始める前に
大事なことなので冒頭に述べておくが、私はこの投稿で住友商事を批判するつもりは全くない。新卒からの13年間に一片の悔いも無いし、住友商事も社員も、OBも大好きだ。
そもそも転職という行為自体、何か「特別なもの」ではない。モノカルチャーに染まること自体がリスクであり、どんなに素晴らしい会社であったとしても、そこからピボットすることは常に選択肢に入っているべきだと思う。
流動性が高まればミスマッチの解消が早まったり、「お互いがいて当たり前ではなくなる」ことで健全な緊張感が醸成されたりするので、社会にとってもプラスである。
依然として「転職=前職を嫌いになった」と捉える向きも少なくないので、念のため「そうではないし、今の日本ではもっと転職が増えるべきだと考えている」ことを冒頭で強調しておきたい。
勉強の日々
2009年4月、配属は「資源・化学品総括部」(今は違う名称)だった。そこは部門、といっても数兆円の資産を運用する組織の経営管理・業績管理をする部署。
私は、よく言う「商社は配属リスクが高い」というフレーズが大嫌いだった。メーカーだってどこだって、経理、調達、開発、製造、人事、、、極めて多様な部署が存在する。
「配属リスクが嫌なら、まだ全員サッカー状態のスタートアップに行くか、起業するしかない」と思っていたし、今でも社員訪問で来てくれる学生にはそう伝えている。
だから私は配属希望は出さなかったし、営業でなかったことにも特に落ち込みはしなかった。
1, 2年目の主な業務は数字の取り纏めだったが、その数字・指標の意味をしっかり理解しなければ仕事にならないので、業務と並行して証券アナリスト資格の勉強を開始、入社3年目で資格を取得した。
勉強したことが業務に出てくる。業務で出てくる分からないことを勉強すると、資格試験に血が通う。この循環は嫌いじゃなかった。
初めての「イワカン」
今思えば、初めて組織に対して違和感を感じたのもその時だった。
2年目時、20人程度の会議で上の方が経営指標について講義をしていた所、幾つかの経営指標の分母分子を間違えて説明した。
決定的な誤りでは無かったが、本質的にはそれだと意味のない指標になってしまうので手を挙げて指摘したところ、「お、おぉ。そうかもな」と反応されて終わり。その後会議室に呼び出され、
「ああいう時は、指摘するもんじゃない。後からメールで本人に言えばいいんだ。」
と叱責された。
という心の声は表には出さず、「そうですか」とだけ返した。きっと口はドナルド並みに尖っていたことだろう。
ただ私はそういうのを黙ってられないので言い続けたし、途中から何も言われなくなった。しかし、この「初めての納得のいかない叱責」は私の中に残り続けたし、心理的安全性を大いに下げるイベントであり続けた。
鼻が無くなった時期
その後、審査部(正式名称はリスクマネジメント部)に異動。前の部署ではそこそこパフォームしていたつもりの私だったが、この部署では「鼻が無くなるほど」根本から鼻っ柱が折られることになる。
当時は未だ珍しかった中途入社の上司に、私自身の「知識不足」「経験不足」を思い知らされ、改めて勉強・叱責・努力・叱責・勉強・・・の日々。
先日読んだ『組織のネコ、としての生き方』に「加減乗除の法則」とあった。最終的に大きなパフォーマンスを出すにはまず「加」、つまり「出来ることを増やす。量稽古。仕事の報酬は仕事という時期が必ず必要」、というもの。
私にとっての「加」の期間はこの上司と共に働いた1.5年間だったと思う。短いが、凝縮された期間だった。正直、暴発しそうになった時も何度もあったが、そんな人が人生の恩師なのだから世の中分からないものだ。
どんなに浮いても気にしない
この人は兎に角変な人だった。但し、「会社の常識」から照らせば。
「俺はこの案件には反対だが、それを言う権限は俺には無いので捺印欄は空欄で回付してくれ」と言われた。そのままその上の上司に持っていくと当然突っぱねられる。
結果、彼は「スキャンしたら消えるようにハンコを限りなく薄く捺す」という奇怪な行動を取った。当時はなんじゃこの人と思っていたが、確かに「上司が賛成するから自分も賛成しないといけない」という道理もなく、「不羈独立するとはこういうことか」と思うようになった。
その後、どんどんと彼と私の二人は浮き続けた。担当営業やその他の方々からは信頼されていたと信じるが、私のチーム送別会が「私達とそれ以外全員」という席配置になったことからも分かるように、完全に切り離された存在になった。
しかし、そんな席配置も、深夜まで残業することが明確な我々を尻目に、若い事務職を拉致って定時退社する上司も、全く気にならなかった。
自分が日々成長していること、そしてパフォーマンスが上がっていることが手に取るように分かっていたから。
その時にその自覚は無かったが、この時には既に「組織」と私の間には溝が生まれていた気がする。
「このM&Aの案件、やっといて」
2013年12月、自分が単独指名で希望していた部署に異動。農業資材を取扱う部署だが、希望したのは農業に興味があった訳ではない。理由は
「部署の規模が小さく、任せて貰えそうだったから」
総合商社に入る多くの人は、とかく規模感の大きい案件をやりたがる。でも、その場合は若手は歯車の一つにしかなれない。1,000億円、5,000億円案件の最終的な社会インパクトは大きいかもしれないが、一気通貫にやれることなど夢のまた夢である。
自分のキャリアを考えた時に、「一気通貫で投資案件をやりたい」と思い、小さいけど元気のある部隊に行きたかった。
そして配属初日の部長との面談。今でも忘れない。
「今、XX億円のM&A案件が動いてるんだけど、A氏と二人でやっといて」
という副音声が0.2秒で流れ、「承知しましたぁ!」と威勢のいい返事をした。結果、信じられないくらい任された。
こちらから報告に行かない限り、基本的に聞かれない。出張目的も細かく聞かれない。たまに求められる状況報告も、本当に肝の部分だけ。
そしてパートナーのA氏も「俺は上司じゃない、お前の同志だ」という、新選組みたいなことを真顔で言ってくる変な人。
その環境は、私を案件に燃えさせるには十分すぎた。現地出張を繰り返し、初めてのM&Aに本気でぶつかり続けた結果、2015年5月、出資が実現した。
「やっといて」と言える、そしてそれを本気で実行してくれた当時の部長と、新撰組風の"同志"には今でも心から感謝している。
世界中から飛んでくる「槍」。食らい続ける私。
出資(Closing)よりも、契約書への署名(Signing)はもっと前に終わる。出資直後から開始するPMI(Post Merger Integration)に備え、私は2015年2月からブラジル超・長期出張を開始した。
ここから様子がおかしくなった。出資直前・直後なんてドタバタの連続に決まっているので、現場は七転八倒でも特に気にならなかった。
問題は、社内から飛んでくる矢・槍・砲弾。
現場からまめに発信をすれば、「この報告を全部読めというのか?」と言われる。一番衝撃だったのは、「知らないお前に教えてやるよ、とでも思ってるのか?ふざけるな」という反応。
じゃあと思い、連絡を減らすと「なんで俺に報告がないんだ」。どうしたらええねん。個室に呼び出されて大声で怒鳴られることもあり、これが人生初のパワハラ被害だった。机をバンバン叩かれ、半沢直樹の見過ぎじゃないかと後から思った。
これはExtremeなケースだが、彼に限らずサンパウロ・ニューヨーク・東京といった関係拠点がアマゾンにいる私の動きを心配したのか、「目的レスな質問」「謎の指示」「メールのてにをはについての叱責」が相次いだ。
日曜に到着したお偉いさんのお出迎えを私服でしたら、また怒られる。別のお偉いさんが来るときは、「細田、ホテルに隠れてろ」。え、007?
私は結構自分のことを信じれるタイプだが、そこまでいろんな人に言われると、
「俺がオカシイのか・・・???」
と疑心暗鬼にさいなまれ、眠れない夜がとにかく続いた。
守ってくれる人が一人でもいれば、生きていける
いい大人が夜泣きそうになったこともある。それでも折れなかった。東京に一人、ブラジルに二人、守ってくれる人がいたから。
東京の上司は12時間時差の中、わざわざブラジル時間の夜に合わせて電話を掛けてくれ、
「色々苦しいと思うけど、負けるな」
という言葉と共に、技術的なアドバイスも多数くれた(その時に「メタ認知」を教わり、それを活用したことでかなり精神的に楽になった)。
ブラジルの人たちは麻婆豆腐を作ってくれながら、「味方でいてくれる」ことを言葉・空気両面で感じさせてくれた。
だから折れずに済んだ。結果、出資先の史上最高益を計上して、やり切って日本に戻ることができた。当時PMIをやった仲間たちとは、今でも交信が続いている。
このブラジル案件を通じて、「自身のスキルの飛躍的成長」と共に、「組織に対する強烈なイワカン」も感じることとなった。
そしてこれが、「集団に阿らず、尖っている個として生きていく」ことを決定づけた経験でもあった。
スタートアップとの出会い
ブラジルは旅行用VISAで滞在可能なのが183日なので、超長期出張とはいえ、定期的にブラジルを離れる必要がある。
日本に帰ってくると12時間時差があるし、PMIは兎に角現場(ブラジル)で動くものなので、ある程度余裕が生まれる。じっとしていられない性分の私は、週刊ダイヤモンドの端っこに載っていたスタートアップに連絡を取り、謎の出張理由を書いて帯広に向かう。
そこで出会った小林社長に惚れてしまった。当時営業部からのスタートアップ出資は異例なことだったが、既出の上司の支援と自分の熱意で実現させることができた。その時の「やってみなはれ」マインドの上司たちには、今でも憧れと尊敬の念を抱いているし、自分も将来の部下にそうしてあげたい。
出資後は海外展開などもあって足繫くファームノート社に通わせてもらった。そこで感じたのは、圧倒的なスピード感。打合せをすれば、そこで決まる。その打合せに出てくるのも一人や二人。
結果として共に成し遂げたかったプロジェクトは諸事情により延期となったが、ファームノート社と共に過ごした1年間は非常に刺激的で、漠然と「スタートアップ、いいな」と感じるには十分な期間だった。
「自分で」「一貫して」「やり切った」と言い切れたウクライナ案件
2017年にブラジル案件を離れ、検討が始まったばかりのウクライナ案件に。こちらもM&A。
東京の担当は私一人。ロンドン副社長とのタッグだったが、本当に信じられないレベルで任された。今思い返しても、DD・交渉・社内アレンジ、、、全てを任せてくれた。
無論、「私一人でやった」というつもりなどない。というか、そんな仕事はこの世に存在しない。しかし、「一気通貫して自分で陣頭指揮を取り切った」と自信をもって言える案件にさせて貰えたのは、本当に感謝している。
その結果、運よく2018年11月にClosingに至る。
その後、2019年1月から日本人としては私一人での駐在となり(ポーランド人がもう一人の駐在員)、約400人のSpectr-Agro社員から「住友商事に買収されてよかった」と思ってもらえるための日々が始まった。駐在3年間の振り返りについてはこちらのnoteをご一読いただきたい。
七転八倒、されど七転び八起きの日々だったが、「本社の誰にも相談せず、自分で決めて自分で責任を取れる」その環境を大いに楽しみ、3年連続で最高益を更新したことは自分の確かな自信となった。
給与・賞与全額返納します
自分の中で、一つ転機になったイベントがある。とある背景から、事業会社にコストカットの指示が出た時のこと。
ウクライナの平均賃金は当時USD 400。レートを高めに見ても、5万円。年間60万円。一方、住友商事の平均賃金は有価証券報告書によると1,356万円、約22倍。つまり住友商事社員1人が身を切れば、22人のウクライナ従業員が影響を受けずに済む計算になる。
その事業会社が採算不振になったのであればコストカットも当然だが、この時の背景は本社都合だった。それであれば本社の人間が先に腹を切るのは当然と考え、その指示が出た当日、本社人事部に対して「全額返納したいのですが、どうしたらいいですか」と連絡した。
結果、粘ったものの受け取って貰えず、事業会社へのコストカット要請も生き残ってしまった。大きな影響なくマネージすることは出来たが、それとは別に、「全額返納することに一切の迷いが生じなかった自分」に驚いた。社内ハレーションも前例の有無も一切考慮せず、ただ「そうあるべき」と思って行動していた(事後報告となった妻からは苦い顔をされたが)。
この時に私の
という信念が確立された。そしてこの「確立」が最後の引き金を引くことになる。
「2022年2月に辞めよう」と決める
ある日、「2022年2月に住友商事を辞める」と決めた。その最も大きな理由は以下の三つ。
①・②裁量権、リーダーシップという観点
リーダー=「何かを決める人間」であることから、①と②は「二つで一つ」。
「M&A」という観点で言うと、決定権を持てるようになるには50歳前半が最速。M&A以外は異なるが、それでも30代でガンガン物事を決められるということはない(出向先では別。本社での話)。
2019年の時点で32歳だった私として、「20年掛けて勝率数%の出世競争に勝ち残ることを目指す」という選択肢は全くなかった。そもそも私のような人間が出世できる訳もなかったし、20年という期間は途方もなく長かった。
私は「自分で決めて、自分で責任を取る」という経験が最も人を成長させると信じていて、キャリアで最も重要な期間である35-45歳を、それができる環境で過ごしたかった。
③使命感、という観点
上述の「使命感・正義感>>ルール・しがらみ」の通り、私は私という一個人が「やらなくてはならない」と思ったことがあれば、それを阻むものが何であれ、乗り越えて実現させにいく。
それは決して「一人よがり」ではない。既存のルールやしがらみを崇めることなく、目的を研ぎ澄ませ、常にゼロベースで考えて行動するというだけ。
しかし入社以降、これを実行していくことが年々難しくなっていった。既存のルールに少しでも抗おうものなら大きな抵抗を受け、年功序列を妄信する人間からは非合理的な圧力を受けた。
この「使命感を第一にする姿勢」は稀有のものであり、その独自性のお陰で多様なチャンスもいただけたが、ここいらで「皆が使命感で仕事をしている環境」に行きたくなった。
そんな中、酷いパワハラを受けた。心無い暴言を数度受けた。それがフラッシュバックして、日中でも体の動きが止まるときもあった。これが気持ちよく決断をする、最後の引き金になった。
自分に出来ることは全てやり切ってから、辞める
自分は会社の中で、少なからず異端の人間であるという認識はあった。そんな自分が出来ることは何かと考えていたときに、一人のトンデモなく尖っている社員と出会う。
彼は70人規模の部署で、たった一人、侍のように戦っていた。
また、給与返納事件の時にCCで成り行きを見ていた後輩から同時期に連絡を貰った。彼らも尖っていたが、道に迷っていた。彼らの「尖り」というロウソクの火が今にも消えそうで、そして消える未来が鮮明に見えた。
その時に「ロウソクの火も集まれば消えないんじゃないか」と思い、社内でコミュニティを作り始めた。すると案の定、各部署にちょっとずつだが侍がいた。仲山進也さんのいう「隠れトラ」、三枝匡さんのいう「隠れキリシタン」だ。
まだ退職を決めてはいなかったが、辞めるかどうかに関わらず「尖っている人達のコミュニティを作り、そこの武蔵坊弁慶になるのが自分の使命だ」と信じ、そんな集まりを作った。
今では数十人規模に育った。そこに集う人たちは本当に魅力的で、知り合って数か月や1年とは思えないほどに、深い所で繋がれていると思う。
詳細は割愛するが、それ以外にも論文執筆、社内講演会の実施、Twitter/Noteの開始、、、とにかく「出来る限り全てのことをやり切ろう」、そう思って今日まで日々を過ごし続けた。
私がどれだけのことが出来たかは分からない。それでも、「細田さんの跡を継いで、尖り続けます」「このコミュニティがあったお陰で、会社での過ごし方が変わりました」、、、そんなことを言ってくれる人達がいるということは、少しは付加価値があったと信じたい。
日本のために働きたい。ご縁で伺う次の会社。
次の会社は必ず「ご縁」、つまりReferralで行くと決めていた。
私の生き方の一つに「反省はしても、後悔しないで生きていく」というものがある。
自分が人生で何よりも大事にしている「人との繋がり」を元に意思決定をしたら、もし転職自体が上手くいかなかったとしても、絶対に後悔しないと思えた。
そして、一切の打算なく仲良くしてきた後輩から誘って貰った会社に行く。行く理由はもちろん、ご縁だけじゃない。
営業に移ってからの8年弱、その大半を「ブラジルとウクライナの人々を幸せにする」ことに費やしてきた。日本への貢献は配当金を送ることだけ。
でも、私はやはり日本が好きだ。その日本が、夥しい量の課題に苛まれている。娘のためにも、少しでも日本を良くしたい。だから、今の自分が燃えるのは「日本の課題を直接的に解決すること」。
そんな日本の課題に再生医療という舞台で全力で取り組んでいる、セルソースというベンチャー企業に行く。
使命感を大事にする人がもっと増えたら
このnoteを書いていて、改めて思った。私のキーワードは「使命感」だ。
その瞬間瞬間に自分で使命を見つけ、そこに向かって全力を尽くしてこれたから、この13年間は楽しかったし、使命/パーパスが明確なセルソースに行きたいと思った。
振り返ってみると、自分が変わらずに仲良くさせて貰っている人達の多くが、使命を持って軸がある人達。しかし、そんな人は決して多くない。
社命やルール、年功序列を後生大事にしている人達も沢山いる。そんな人達がもっと使命を持って、自由に(自分の想いに忠実に)働くようになれば、もっと社会全体がよくなるんじゃないだろうか。使命を感じて生きている人たちは、やっぱり魅力的だ。
私は今月から、疾患に悩んでおられる患者様、日本の医療事情、そしてセルソースの社員と家族の為に全力を尽くす。新しい世界に飛び込むことにはワクワクしかしない。
そして、そこでの学びや気付きと「使命感」をキーワードとして、noteという場で発信していきたい。
おわりに
自分は飽きっぽいしせっかちだし、「期限が無いとパフォーマンスが落ちる」タイプの人間だ。そういう意味で一つの組織に13年というのは、少し長く居過ぎたのかもしれない。辞めた理由も挙げたが、そもそも潮時だった気もする。
改めて言うが、住友商事は大好きな会社だった。自分が改めて就職活動する時も、きっと受けるだろう。通るかな笑
でも、「完全に新しい空気を吸うタイミングが来た」と心の底から言える。この13年間にも、今回の決断にも一切の悔いはない。
先日、35歳になった。改めて全力で走り出す。
細田 薫