源氏物語の美について

 私が源氏物語を瀬戸内寂聴の訳で読んだのは、恐らく二十歳になるよりも前のことだったと思う。そして年に何度か、源氏物語を読み直そうと思うのだが、思いを行動に移すことは、なかなか難しい。一度、源氏を谷崎訳で読んでみたい。と高校生の頃から思っていたのだが、つい先日、ドストエフスキー全集を買ったばかりであるし、それを読んだ後は、バルザックとトルストイの全集も読みたいと思っているから、源氏を読み直すのは、来年くらいになるのかもしれない。だが自分は日本の古典文学を、老後の楽しみの一つとして取っているので、再来年以降になったって別に良いとは思っている。

 さて源氏物語だが、自分はこれを読んで、至る所に散りばめられた美を感じ、何度も感銘を受けたことを今でも記憶している。先日に末永幸歩著「13歳からのアート思考」を読み終えたのだが、何だか少し複雑な気持ちになってしまった。この書は自分の美術鑑賞に関する知恵を幾つか改めてくれて、感謝している気持ちも大いにあるのだが、余りにも芸術を、思想の賜物であるかのように表現していると感じてしまった。西洋の芸術運動は列記とした一つの芸術史であるに違いないだろうが、芸術は思想とはまた別物で、思想で芸術を語ることは可能であろうが、芸術は思想を表現するためにあるのではない。芸術とは精神的美を作品として表現する行為であり、精神的美を表現するためには、偉大なる技術を必ず要する。そして精神的美を表現する技術は、常に徹底された鍛錬により生じるが、必ずしもそれは思想を必要とはしない。だが信仰心は必要である。では信仰心とはいったい何であるのか。それは美に対する憧憬であり、それを作品として表現するために、思考を用いることがあるのも事実であるが、芸術とは私達が想像する以上に、哲学的でないことも一つの事実であるのだ。
 最近、芸術という言葉の持つ意味が、余りにもマイノリティーなものを含めている気がする。芸術家を想像すれば、どこか独自的で個性豊かな人間を想像してしまう今日この頃であるが、私は源氏物語に触れると、いつも何だか物寂しい気持ちになってしまうのだ。
 芸術を理解するとは、何もそんなに難しいことではないはずだ。芸術という行為をする者は、個性豊かな天才ではなくて、自らの理想とする精神的美に信仰心を抱いた者である。その信仰心とは、思想と呼ぶほどに学術的なものではなく、もっと生活的なものである。そして芸術作品を理解するためには、作者が自らの作品に捧げた芸術的信仰を目の前にして、その鑑賞者である私自身の感覚と経験を信仰する態度だけで足りる。しかしこの自らの内に必要とする信仰心は、この時代で培うのには、幾らか苦労するものなのかもしれない。なんせこれを理解している人が少ないし、私達は誰にも正しいことを教えて貰えないのが現実である。芸術鑑賞とは、作者の芸術的精神を拝借して、自らの芸術的信仰心を確かめる行為のことだ。これ以外に芸術の意味するところはないはずである
 
 源氏物語を読めば、日常生活のありとあらゆる処に、様々な種類の美が散りばめられていることに気が付くだろう。美はかつて生活と共に存在していたという事実が、源氏を読むとふと思い出すのだ。四季を感じられる宮殿、心に沁みる琴の旋律、目を見張るような絵画、手紙に記された達筆な字と、それに施された奥ゆかしい香り。書物の豪華な装丁や着物の装飾と素晴らしいお香の香り、その着物が滑らかに揺れる舞いの鑑賞、感性を揺さぶるような食事、秋になると虫の音の美しさを愛でては、偉い人の和歌を思い出したり、自らで和歌を詠んだりする。私は源氏を読んでいると、本来、美が何と生活と共に存在していたものであったかを考え、初めて美を知ったかのように思えて言葉を失ってしまう。確かに芸術と生活的な美とは決して同等のものではないが、芸術が哲学などよりも、上に記した美との方が、よっぽど類似していることは確かなことである。やはり芸術は美で表すのがよっぽど自然的であると感じられる。これだけ言えることは、芸術鑑賞とは誰かの思想を汲むためのものではない。本来、芸術鑑賞とは、そのような胡散臭いものではなく、感動の喜びをありのままに味わうものであったはずである。源氏物語を読めば誰しもが納得するはずだ。

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