藤原優也

藤原優也

最近の記事

美術鑑賞について

 二〇二一年の年末にあべのハルカス美術館に行った。大阪市立美術館に行ったついでに、同じ天王寺で催されている「コレクター福富太郎の眼」展に寄ったのだ。どんな絵が展示されているのかも殆ど知らなかった。だがメトロポリタン美術館展の入場券があれば、どうやらコレクター福富太郎の眼展が百円引きになるらしかったので、私は美術鑑賞にどっぷりと浸かって日頃の疲れを癒そうと考えたのだ。  展覧会で最初に展示されていたのは鏑木清方の絵だった。そして驚くことに、この展覧会の出口まで私の頭を支配したの

    • 葉に乗る露の玉を見て 何故だか心が動くのは 透き通る露の輝きが 涙に似ているからでしょう 弦に触れると音が鳴るように 魂が震えれば 目元は涙で濡れて 雫は頬に滴り落ちるでしょう 人にとって愛しいものは 葉に乗る露のように 永遠ではなくて まるで硝子のやうに 壊れやすいので 人は魂を震わして 透き通る涙を流すのでしょう 涙とは魂の旋律 涙は心を映している 涙は魂と同じ色 涙は言葉で表せれない 涙は世界に広がる水のように 果てしなくてとめどない そのような掛け替えのない 魂か

      • 色を感じる

         二〇二一年もとうとう年末を迎えて、本職の仕事が十連休の長期休みとなった。私はもう居ても立っても居られずに、大阪市立美術館で催されている「メトロポリタン美術館展」に友人を連れて足を運んだ。    私は美術館に行くことが好きだ。その理由の一つとして、色の美しさを感じる喜びがある。この世界には美しい色がある。それは当たり前のことではあるが、美術館は改めて自分に教えてくれる。そして私達は美しい色に出会ったとき、自らの心が大きく動くことを感じて、ふと時間が止まったかのような恍惚の瞬間

        • 幸福な夢

          今は亡き愛しい小鳥が ふと昨夜の夢に現れて 私の肩に乗ると 昔と変わらないような とても可愛いらしい声で 私に愛を歌ってくれた 小鳥は天に召されても 魂は私の近くにあって ついつい夢に出てきたのだろう 小鳥は幸福を謳歌して 懐かしい声で鳴いていた あの魂は本物だろう 私の愛しい二匹の小鳥 いつでも夢に出ておいで 例え生きる場所は違っても 魂は愛を通じれば 永遠に交わるのだから いつでも私の夢に遊びにおいで

          正岡子規の短歌について

           先日、岩波文庫の「子規歌集」を久しぶりに読み通した。そしてやはり私は子規の短歌に対する態度が好きであると感じた。  人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花  これは子規の歌であるが、何と洗練された写生の術であろうか。歌を声に出した直後、歌に詠まれた光景がありありと目の前に広がる。すると私の心は大きく動くのだ。これこそ短歌に心を動かされた瞬間というものだろう。  紅の大緒につなぐ鷹匠の拳をはなれ鷹飛ばんとす  うらうらと春日さしこむ鳥籠の二尺の空に雲雀鳴くなり  古

          正岡子規の短歌について

          雪のコンチェルト

          純白の天使みたく 柔らかな 柔らかな雪が 私にゆっくり降り注ぐ 冬の夜風の冷たさが 純白の華と交わって 雪のコンチェルトが鳴り響く 我が身を焦がすような 行き場所のない情熱よ 天使の歌声のような 雪の清らかな旋律で 悲しみを天に昇華させ 濁りのない涙に変われ 雪よ 清らかな雪よ 天使の翼のように 純白で美しい雪よ この冷たさはきっと 我が身を滅ぼすような 燃えるような熱に施された 愛の冷たさであるのだろう

          雪のコンチェルト

          人生の色

          太陽の燦爛たる赤色と 海の果てしない青色が 深く交わって 水平線が緑に染まる あの緑は 瑞々しい葉のような 命の色 又は森に満ちた 魂の色 太陽の色 海の色 これらが深く交わって 水平線が緑に染まる これは人生の色 緑色が呼吸をして 輝いて 広がって 私はふと永遠を感じる

          硝子細工

          透き通る思いは まるで硝子のようで 数珠を繋ぐように 気持ちを表すと 言葉の割れた音がする 思いを掬ってみると まるで冷たい水のように 両手から流れてしまう だから霧に包まれたように ずっと言葉を探している

          美しい星

          記憶は夜空のようで 満天の星が輝く 流星を見つけては 両手を合わせて 追憶の内に人を思う 私の愛した全てが 星月夜の光で 一杯に満たされますように 星空に手を振る 手を振る 幸福な朝を迎えられますように

          高野素十の俳句について

           私は俳句に関して殆ど無知だが、高野素十の作風が好きで、年に何回か句集を開ける。最近、また高野素十の句を心から楽しんでいる。  高野素十は俳句雑誌「ホトトギス」を代表する俳人である。そして高野素十は高浜虚子の唱えた客観写生を最も忠実に実践した俳人であった。客観写生とは正岡子規の写生論が基になっているらしいが、高浜虚子は客観写生について以下のような言葉を残している。  「私は客観の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句

          高野素十の俳句について

          価値を見出す

            人生に価値はない。ただ人生に価値を見出すことはできる。これは全てのことに言えるだろうが、価値とは個人の解釈である。では解釈とはどのように行なわれるか。それは心の動きによってである。心とは複雑なもので、心それ自体が過去の経験、記憶によって構築されており、心は常に記憶に基づくことで目の前の現実を解釈している。この解釈とは言わば思考、思想であるが、これを可能にするものは個人の知恵であろう。価値を見出すことは知恵によって可能となる。知恵とは経験と思想の賜り物である。経験の記憶が思

          価値を見出す

          エッセイについて

           私は高校生の頃からずっと小説家を目指してきた。今だって作家に対する憧れはある。いつの日か立派な小説を書いてみたい。そんなことを考えてはいるのだが、自分は何故かずっとエッセイばかりを書いている。そして小説の創作はちっとも進んでいない。呆れるような話だが、その理由は明確である。それは私の思想が小説ではなくてエッセイを求めているからである。小説を書くには小説でなくては表現できない思想が必要であるが、私にはそのような思想の持ち合わせがないのだ。そして私の思想は恐らくエッセイとして表

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          良さを見つける

           どんな人間にだって良さがある。私は立派な物書きとは、良さを見つけることに秀でている者であると考えている。全ての人間に良さはあるが、それの全てを自然に認めることは決して簡単ではない。なんせ良さとは個性の一部である。良さを見つけるには人の個性と真剣に向き合わないといけない。個性と向き合うためには、個に興味を抱く必要がある。個に興味を抱くとは、人間に興味を持つということだ。それは人間を愛することだ。人間全体を愛すれば、自然と個が見えてくる。すると今度は個を見ることでその個性を感じ

          良さを見つける

          言葉について

           私は最近、言葉というものを余り信用していない。何故なら人間は誰しもが、少しの想像力さえあれば、どれほどにも言葉を上手に紡ぐことができるからである。言葉を紡ぐ技量と生き方の問題は少しも比例しない。そんなことを考えていると、最近は無言な人が最も魅力的であるように思えてくるのだ。意識と現実は時に背を向け合う。そこには理想と現実とでも言えるような言動の不一致の奇妙さが見られる。こんなことを考えるようになったのは、もちろん自分の怠け癖が原因であるのだが、やはり良い言葉を口から出すより

          言葉について

          幸せについて

           人生には幸せを感じる時間もあれば、不幸を感じる時間もあるだろう。だが決して幸せな人生や、不幸な人生というものはない。例え現在が不幸であったとしても、記憶を探れば必ず幸せだった瞬間が見つかるはずだ。何せ幸せとは時間の中にあるものであって、人生そのものを表現する言葉ではない。そこを間違ってしまうと、幸せというものが分からなくなってしまう。幸せとは人生の中にあるものだ。それも一つではない。どんな人間にだって幾つもあるはずである。ただ言うまでもなく不幸事もその道理と同じであるので、

          幸せについて

          物語について

           私は趣味や性癖を自己主張するための物語が好きではない。やはり物語はいつであれ書き手の希望と共にあるべきだろう。希望とはいかに生きるべきかの問いである。更に希望とはその問いがそのまま答えとなるような問いのことである。このような希望の探求こそが創作家にとって物語を作る一番の楽しみではないか。私は物語を楽しむとき、いつも作り手の希望に自らの心を預ける。私は物語を読むときは無垢となって、作られた人間達の繰り広げる劇に一つの真実を見るのだ。私にとって良い物語とは全て真実である。やはり

          物語について