【読書】『わが友マキアヴェッリ』第三巻【イタリア統一しかない】
考えることしかない
仕事が大好きであったがゆえに有能になり、有能であったがゆえに職場から追放される。
皮肉以外の何物でもないが、仕事がなくなってしまったがゆえに、考えることしかできなくなってしまった。
マキアヴェッリ、四十四歳から四十六歳は、最も失意の時期で、不惑どころか戸惑ってばかりであった。
だからこそ『君主論』が生まれるのだけれども。
フランチェスコ・ヴェットーリ
一五一三年、フランチェスコ・ヴェットーリとの「文通」が始める。
ある未亡人に恋をし、彼女の欲しがっているものをローマで買って送ってくれ、とかなんとかまで書いているだから、失職し、経済的にも精神的にも困窮していたのかどうか、相当に疑わしくなってしまう。
とはいっても、ヴェットーリも未亡人に恋をしている。そんなところまで似ているのだから、ウマが合ったのかもしれない。
思索的な面と享楽的な面をもつフィレンツェ人の面目躍如である。
しかし、マキアヴェッリをマキアヴェッリたらしめるのは、次の一文であろう。
ということで、政治論を主体とした「書簡」が交わされることになる。
ヴェットーリは、マキアヴェッリのことを高く評価していた。
マキアヴェッリの意見はマキアヴェッリのものだ、と包み隠さず法王レオーネ十世やジュリオ枢機卿という法王庁の二人の実力者に報告している。
手紙のそのものまでも見せている。
二人とも大いに感心したそうだが、マキアヴェッリを使おうとは考えていなかった―――――危険人物だとみていたのである。
ようやくにして一五二〇年三月、マキアヴェッリはメディチの門をくぐることができた。しかし、復職は認められなかった。
文筆家として名声を上げ始めていたマキアヴェッリに、フィレンツェ史の執筆を依頼する。
条件は二年で書き上げること、年額にして百フィオリーノ小金貨。書記官時代の年収の約半分ほどである。
それでもマキアヴェッリは勇躍して取りかかる。
ピエロ・ソデリーニ
一五二一年、かつての上司ピエロ・ソデリーニ(元フィレンツェ共和国大統領)はマキアヴェッリに仕事を斡旋する。傭兵隊長プロスペロ・コロンナの秘書である。
年給二〇〇ドゥカート。『フィレンツェ史』を書く年給のほぼ四倍なのだが、マキアヴェッリは断る。
徹底した傭兵嫌いで、心の底からフィレンツェを愛していたマキアヴェッリにとって、ふさわしい仕事とは、到底、思えない。
しかも、マキアヴェッリは「経費が足りない」と苦情は言ったが、「給料が足りない」と苦情は言ったことはないのだ。
事実、マキアヴェッリが蓄財に興味がなかったことは、フィレンツェ共和国書記官時代に蓄財しなかったことで証明できる。
だからこそ、失職したら経済的に困窮することになるのだけど。
ピエロ・ソデリーニは親切な人間であったのだろう。そしてマキアヴェッリを愛してもいたし、評価もしていたのだろう。
だが、マキアヴェッリを理解することはなかったのである。
グイッチャルディーニ
一五二一年五月、カルピへの出張の途中にモデナに立ち寄ったマキアヴェッリは、グイッチャルディーニと出会い、たちまち意気投合する。
グイッチャルディーニは『覚え書』の中でこう書いている。
マキアヴェッリとウマが合うはずである。
マキアヴェッリも、フィレンツェを憂い、政体の効率的運用を考え、外国からの援軍を否定している。
宗教に関しては、マキアヴェッリとグイッチャルディーニの往復書簡の中で、こう書いている。
サヴォナローラの混乱で窮地に陥ったフィレンツェのために、東奔西走していたのがマキアヴェッリなのだから、それを言う資格はある。
しかし、グチというものは、笑いの要素を込めて言うほうがいいのかもしれない。面白い言い方をする。
ところで、この往復書簡には、まったく別の効用が生まれた。
毎日、手紙を書いてくれたら助かるのにと伝えると、グイッチャルディーニはもちろん助ける―――――「手紙を書く」だけなんだけど。
「何でもやる」といっても「手紙を書く」だけなのだが、カルピの人々は大騒ぎである。
マキアヴェッリも、皇帝は、フランス王は、スイス傭兵はうんたらかんたらと、デタラメなことをぬかしたうえに、さも重要なことを考えているようなしぐさをしながら、手紙を書く。
フィレンツェ人の享楽的な一面を、何とか学習できないか、と企んでいる。
「手紙を書く」という「いたずら」をすると、待遇がよくなって、食事の量が増えるのか。
相当いろんなところで、グイッチャルディーニとウマが合ったのですな。
マキアヴェッリの結論:イタリア統一しかない
マキアヴェッリが指導者に求めたのは
ヴィルトゥ:力量、才能、器量
フォルトゥーナ:運、幸運
ネチェシタ:時代の要求に合致すること
である。
そのマキアヴェッリが到達した答えは
「イタリア統一」
である。
一六世紀の初頭に台頭した、フランス・スペイン・トルコなどの君主国に対抗するにはどうしたらいいか?
ヴェネツィアは、政治も経済も、一国で安定している。
ミラノはフランスが狙っている。ナポリはスペインが狙っている。
消去法で考えれば、中部イタリアに強力な君主国を創るしかない―――――チェーザレ・ボルジアなのである。
『君主論』のモデルとしてチェーザレを選んだのは、ネチェシタ―――――時代の要求に合致すること―――――が理由である。
ロレンツォ・イル・マニーフィコは、フィレンツェ人ならだれでも憧憬する君主である。
しかし、ロレンツォの時代は強大な君主国の影響を受けずにすんだ時代なのである。
時代が変わった。それならば処方箋も変える必要がある。
繰り返すが、ロレンツォとマキアヴェッリの間には二〇年しかない。
しかし、たった二〇年の間にイタリアを取り巻く状況が変わってしまったのである。
とはいっても、一九世紀末にやっと実現した考えを、二一世紀になった現代でも政情不安があるというのに、一六世紀に実現しようとしても、無理がある。
結局、マキアヴェッリは『歴史家、喜劇作家、悲劇作家』になるしかなかったのである。
ローマ掠奪
それでも、「一六世紀に実現していたら?」と思ってしまう。
マキアヴェッリが主張したのは、国(都市)を守るには、力と思慮の双方が必要で、とくに自前の軍事力を持つこと、である。
最初に説いたのはソデリーニに答申した、一五〇三年。『君主論』は、一五一三年に書かれている。
マキアヴェッリがいなかったとしても、その主張を知らなかったとしても、フランス王シャルル八世のイタリア侵攻は、一四九四年である。
二十年もの時間があったのた。それだけの時間があったのに、何も考えず、何もしなかった、のでは、厳しいことを言えば、不幸を招いたのは、自分自身である。
一五二六年ドイツ傭兵南下開始。
一五二七年五月 ローマ陥落。六か月に及ぶ「ローマ掠奪」のはじまりである。
勝った側のスペイン王カルロスですら不愉快になるほど、ローマは徹底的に破壊された。
同六月、法王クレメンテ七世、ほぼ無条件降伏。
その時期、フィレンツェはメディチ家を再追放、共和制が復活する。
そこで、マキアヴェッリはフィレンツェに帰国し、空席になった第二書記局書記官に立候補するのだが、大差で落選する。
落選してから十日後の六月二十日、病に倒れ、二日後に死去する。
*アイキャッチはdarrenquigley32によるPixabayからの画像
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