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キモシェ解散と世界の終わり

ずっと見て見ないフリをしていた記事を、ようやく読みました。私が今現在絶賛どハマりしているキモシェアハウスが、遂に...解散してしまうことが"ほぼ決定"したらしい。

⇧キモシェアハウスやメンバーズについては、こちらにも書いてあります。でも、この時は未だ本気にして居なかった。あのキモシェが、まさか本当に解散してしまうなんて。形あるものは、いつか皆無くなる。エントロピーは増大するし、宇宙はいずれ熱的死する。それは絶対的に変わらない物理学の法則だ。キモシェという宇宙が、世界が、終わってしまう。私は、目の前が真っ暗になった。これから一体、私は何を楽しみにしたら良いんだろう。何を生き甲斐にしたら良いんだろう。分からない。分からないよ、怖いよ...。こんな感情を抱くのは、大好きなFate/zeroが終わる間際に感じた以来だ。私は今まで芸能人にもアイドルにも、それほどのめり込んだことは無い。生きている人間や団体(?)にはあまり興味を感じり関心を持つことがなかった。そんなドライ人間で乾き切った私の心に「お笑い」という新しい世界と「楽しい」と云う感情を掘り出して思い出させてくれたキモシェアが、遂に終わってしまう。

きっと推しているアイドルグループやバンドが解散してしまう時って、熱いファンはこんな気持ちなんだろう。私は今まで理解が出来なかった。生きている人間は変わる、生きるってことは変わるってことだから。でもいざ自分がそれに立ち向かわなくてはならないとなると、怖くて、悲しくて、これから何を楽しみにして良いか分からなくなった。

今のキモシェは正式には第三期メンバーだが、私は初期のキモシェも今のキモシェも同じくらい好きだ。残念ながら一番盛り上がっていた時期にリアタイ出来て居なかったので、伝説の初期キモシェ解散ライブは見たことが無い。でも、有難いことに色んなメンバーがキモシェに関する動画や文章をアーカイブとしてインターネットに残してくれている。だから、それを見れば寂しくない。でも、やっぱりもう終わってしまう。私の大好きなキモシェが、生き甲斐が、楽しみが、未だ私笑えるんだと云う感情が、無くなってしまう。それがどうしようも無く、とても怖い。

キモシェが解散してしまってもメンバーそれぞれは活躍していくだろうし、各自のSNSや YouTubeで動きはあるだろう。でも、私はキモシェというカンブリアエクスプロージョンのようなあの多種多様な濃すぎるメンバーから生み出されるカオスな空間や、そこでの暮らしや出来事を"観測すること"が大好きなんだ。大晦日にメンバー四人が写った、満面の笑みの写真。あれがもう、見れないなんて。嘘だって言って欲しい。

最初は何をやっている人か分からなくて怖かったラッパーの飯田さん。調べたら凄まじい生い立ちの方で、その経験から作り出す音楽のエモさやリリックの柔らかさや繊細さに涙した。そんな飯田さんがキモシェで見せるさりげない優しさや笑顔を見ていると、私もいつか飯田さんのように心の底から笑って気の置けない仲間と満面の笑みの写真を撮れるんじゃないかって、勝手にすごく期待して励まされていた。

私は数年前に離婚して、離婚する数年前から、いいや父親のガン告知のあたりから、私は"楽しい"と思う感情がよく分からなくなってしまっていた。

さきに述べたFate/Zeroの時は、素晴らしい作品を目にした感動から勢いでTwitterアカウントを作り、とりあえず目に付いた人を片っ端からフォローした。どうやって繋がったかすらあまり覚えていないが、未だに覚えていてくれたりリプライを交わしてくれる友達も居る。中には実際に会ったり、夜中どころか朝までチャットやスカイプをして、ジャンルだけで無く私生活のことを熱く語り合った。私の青年期は、オタクであることを恥じてあまりオタク友達を作れなかった。未だ大学生にもなってアニメやゲームをしている人は幼稚というのが当然に思われる、そういう時代だった。だからFate/Zeroは私が得られなかったオタ充な青春を、少し遅れて目一杯味合わせてくれた、未だに大好きな作品だ。その時に繋がった友達は、今はみんなそれぞれ生活圏というか当たり前だがあの頃とは違う時間を生きている。それでも、私にとっては焦がれてしようも無かったオタ充という得難い経験をさせてくれて、人生の空白スチルを埋めてくれた。インターネットって、本当にすごい。Fate/ZeroやTwitterが無ければ、私は未だ色々拗らせたまま林の中の象のように孤独に歩むしかなかっただろう。

話がだいぶ逸れてしまったが今の感情に一番近いのは、大好きだったジャンルのアニメが終わり、せっかく繋がった友達やフォロワーともバラバラになるだろうと感じた寂しさや虚しさに近い。オタクはジャンルが変わってしまうと、よっぽど気があったり他に共通点が無い限り繋がりは薄くなり、やがて途切れてしまう。だからそれが、たまらなく怖かったし寂しかった。友達やフォロワーの手前は父の看病を理由にTwitterから離れたが、本当は怖かったのだ。私は空っぽな人間だから、作品や何かを通してで無いと何も語れないし、コミュニケーションが取れない。だから、怖かったんだ。友達と、だんだんと離れていってさまうことが。それが、たまらなく怖かった。今になってようやっと言える。それはもうジャンルや生活圏が変わっても、Twitterにあまり顔を出さなくてなってしまっても、私という人間に関わろうと思ってくれる友達が確かに居るから。人の縁は水物だし、どうなるかは分からない。でも未来を気にして臆病になるより、今を大切にして生きたい。

今になって思うと、別にTwitterのアカウントを消さなくて良かったんじゃないかと思う。でもあの時の私は父の病気や親戚との関わり、自身の結婚生活や家族のこと、今より遥かに高いストレスやプレッシャーの中で、唯一の息抜きで生き甲斐がTwitterだったのだ。いわゆるツイ廃人というやつだったと思う。でも、それだけ私生活で抱えていたものを忘れられる場所や人に依存してしまっていることにも危機感があった。

このままでは「出棺なう」とか、父の葬式の実況とかきっとしてしまう。そうはなりたくないし、なったところを見せたくない。見栄とプライドだけは人一倍高い私は、そういった理由からもTwitterのアカウントを消した。

また話がだいぶ逸れてしまった。私は今はほとんどTwitterを見ていないので、YouTube本編やコメントを見て個人的に楽しんでいるだけだ。残念ながらキモシェ友達というのはら未だに出来ていない。作ろうとしなかったというか、なかなかコアなジャンルなので恥ずかしいという気持ちも確かにあった。

昨年末にレンタルぶさいく氏のライブに行った。うっすらと、もしかしたらキモシェ友達が出来るかもと淡い期待をしたが、そんなことは全く無かった。私から話しかければ良かったのかも知れないが、なんだか昔より若さが失われた分、迷惑だと思われたら嫌だなと躊躇してしまい出来なかった。

やはり、私も変化しているのだ。もうFate/Z eroが大大大好きで作品が好きな人は皆んな仲間で友達!みたいな、若さによる最強無敵パワーに満ち溢れた私は居ない。変わった、変わってしまった。生きているから。生きるってことは変わるってことだって、加持さんは言った。そうだ、皆んな生きているんだ。キモシェメンバーも、皆んな生きた人間だ。だから変わるんだ。それが、生きるってことだから。

そうやって私は、どうにか今抱えている寂しさや怖さにどうにか折り合いを付けることにした。ハマって未だ、約1年だ。女性ヲタクのジャンルは三ヶ月持てば良いと言うが、私は一度好きになったものにかなり固執するタイプなので、比較するのは難しい。でもきっと、アーカイブにある限りはキモシェの動画を見て懐かしんだり楽しんだり出来る筈だ。だから今は、メンバーのこれからを静かに温かく見守りたい。そんな気持ちです。

だいぶ長くなってしまいましたが、読んで頂いてありがとうございました。とにかくこんな感情になることが久しぶりで、戸惑いのまま文章を打って気持ちを落ち着かせています。

キモシェ観測人の同志も、今は同じ気持ちだと信じています。いや分からないけど。しばらくは寂しいよ怖いようわ〜〜〜んと床に転がり続けると思いますが、最後まで見届けたいです。キモシェ、今まで本当にありがとう。

ならたさんの面高くんとの新大久保デート動画を再び見て、穏やかに寝たいと思います😴💤

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