小川洋子のエッセイから
小川洋子さんのエッセイにこんな文章をみました。ミュージカルにはまって楽しむ小川さんに、コロナ禍がせまります。
だれというわけでもない「あやまりたい」おもい。自分がたのしいおもいをしているのに周りが大変なことになってることへの申し訳なさ。自分がわるいことをしているわけでもないのに、感染した誰かに、コロナ禍のだれかに、何にも関係ないのに、「あやまりたい」という小川さんの姿・・・・そう考えていると、どうしても頭によぎる謝罪の言葉がありました。
これ。霜山徳爾先生の名著。若い心理臨床家に向けた著作。
島を訪れた俳人・中村草田男と、病人と、まったく無関係。でも、触れてしまった以上さけられない、どうしようもなくほとばしる叫び。上記の一句を受けて霜山先生は続けます
「ゆるしてください」とコンパッション
思わず「ゆるしてください」とほとばしる、その根底にある態度はコンパッションだ、と鶴田(2010)は解きます。他者の苦痛を、苦悩に深く共感し、そしてその痛みを取り除こうと願う態度。先の、霜山先生の句の引用に触れて、こういいます。
そうか。コンパッションに満ちた態度。苦しみを抱えた人とともに苦しむ(共苦)態度こそが、大切なんだ。その態度のもとには、苦しむ病人も、詩人も、同じ地平に立たざるを得ないため、ほとばしり出る言葉こそが、「ゆるしてくだしい」なんでしょう。
鶴田(2010)はコンパッションをこう説明します
司祭のナウエンの引用が主です。そう、クリスチャンの司祭の言葉。ここにもう一つのコンパッションがあります。キリスト教を基礎としたコンパッション。
昨今注目の「コンパッション」概念のバックグラウンドは仏教。クリスティーン・ネフのセルフコンパッションも、ポール・ギルバートのコンパッションフォーカスセラピーでも仏教がベースになっています。
ポール・ギルバートの定義では
仏教が背景のコンパッションのほうが、より行動的、かつ積極的に「和らげよう」としているのが違うようにも思えます。でも双方、似ているように思えます。キリスト教ー仏教の違いこそはわかりません。瞑想にも様々な宗教の瞑想があるのとおなじように、「コンパッション」も信仰こそ異なるものの、古く伝統的にある、同じような概念なのかもしれません。
小川さんにみる、コンパッション
小川洋子さんが、「だれともなく」あやまりたい、と思った言葉は、病人を前にほとばしり出た「許してください」と同じような響きにおもえていました。自分の小さな日々の営みとは、何の因果関係もない、感染症というわざわいを前に思わず出た言葉。関係のないものどおしを結び付け、世界の痛みを、自分の痛みとして共にしようとする作家の気概ように思えます。小川さんは、ホロコースト文学(強制収容所の体験記)において、生死の極限状況である強制収容所内でも文学が求められたことに触れ、ほかのエッセイでこう結んでいます。
この姿勢。コンパッション、といいたい。読者の苦しみと共にあろうとするような、読者の痛みを和らげようとその思いに一体化するような姿勢といえるのではないでしょうか。