情動 (エモーション) とフェルトセンス
情動 (エモーション) とフェルトセンス(直接参照体)との区別は、ジェンドリンにとって年を追うに連れますます重要 になっていきました。そこで、以下ではまず彼がこの2種類の感情を区別した歴史を振り返ります。次に、『プロセスモデル』で論じられている区別がフォーカシングの実践とどのように対応しているかを検討することにします。最後に、両感情の区別にもかかわらず、実践においてはそれらが連続したものとして捉えられていることを指摘します。
2種類の感情の区別、その変遷
『プロセスモデル』第VIII章の「(a) 導入」で、情動は、フェルトセンスや直接参照体が形成される第VIII章の手前にある、第VII章的連続というものの一つとして論じられています。
そこでまず、ジェンドリンが「直接参照体 (フェルトセンス)」と「情動」をどのように区別したかをたどりたいと思います。
フェルトセンスの以前の呼び名である「感じられた意味 (フェルトミーニング) 」は、彼の哲学書『体験過程と意味の創造』 (Gendlin, 1962/1997) で初めて提唱されました。しかし当時、感じられた意味は情動と明確に区別されていませんでした。
1960年代前半の心理療法論文「人格変化の一理論 (A Theory of Personality Change) 」の脚注において、感じられた意味 (直接参照体) と全くの情動との区別が初めてなされました (Gendlin, 1964, pp. 123-4; cf. ジェンドリン, 1966, pp. 112-4; 1999, pp. 196-7) 。
1970年代前半の哲学論文「情動の現象学: 怒り (A Phenomenology of Emotions: Anger) 」 において、「情動は、あとで後悔するような行為をさせる」と書かれています。そして、「怒りを爆発させることが、状況をすべてふまえた行動であることはほとんどない」 (Gendlin, 1973, p.378) と論じられており、これはのちの『プロセスモデル』の先駆けとなっています。
1980年代前半の心理療法論文「クライエントのクライエント」で、引き続き情動とフェルトセンスを対比させています。怒りのような情動は「ストーリーのあるスロットに入ってきて、それを部分的に推進する」ものの、「状況全体を推進しない」 (Gendlin, 1984, p. 102) のだというわけです。
情動の限界: 視野の狭さ
1990年代前半の哲学論文「パターンを超えて考える (Thinking beyond Patterns) 」の中で、ジェンドリンは「情動は視野を狭め、現在の状況を見逃す」と書いています (Gendlin, 1991b, p.101) 。しかし、この論文では、視野を狭める理由について明確に論じられていませんでした。
同年の心理療法論文「セラピーにおける情動について」では、視野が狭まる理由がより説得力をもって論じられています。この論文で彼は、まず動物と私たちとの違いを「...動物は感情を行為においてのみ持つのであって、内なる空間に内なるものとして持つのではない」 (Gendlin, 1991a, p. 260) と指摘しました。一方で、「動物の情動は私たちと同様に妥当である」 (Gendlin, 1991a, p. 260) とも言っており、その共通点は以下の通りです。
『フォーカシング指向心理療法』の中で、最終的にジェンドリンは次のように言っています。「怒りにまかせて行為すると、その状況の一部にしか反応しなかったため、後で後悔を感じることが多い。落ち着いているときには、状況全体を思い出すことができる。」 (Gendlin, 1996, p. 58; cf. ジェンドリン, 1998, p. 109)
フェルトセンスまたは直接参照体: 全体を全体として感じ取ること
状況全体を思い出すために直接参照体を形成することの重要性については、『プロセスモデル』第VIII章の「b) 直接参照体とフェルトシフト」で論じられています。
『プロセスモデル』とフォーカシングの実践の対応関係
上記の『プロセスモデル』の一節をフォーカシングの実践に具体的に当てはめると、『フォーカシング』の本の中の次のような会話部分がふさわしいと言えるでしょう。
フォーカサー [1] だけでなく、フォーカサー [2] でも、「腹が立ちます」、「いつも灰色です」、「いつも…沈み込んでいる」と、フォーカサーは情動とそれに伴う状況的コンテクストを何度も繰り返していました。フォーカサー [1] と [2] の発言は、7つのレベルからなる「体験過程尺度」 (Klein et al., 1986) で言えば、あまり高くはなく、「外的な出来事に対して話し手に気持ちが語られるが、そこからさらに自分について述べることはしない」 (久保田・池見, 1991, p. 55) という意味で、せいぜいレベル3と評定されることでしょう。リスナーはフォーカサーの第VII章的な連続を止めなければならなかったので、「その中に何がもっとあるか見てください」と言って遮り、フォーカサーに全体を全体として感じ取るように促したわけです。
情動とフェルトセンスの連続性
以上見てきたように、ジェンドリンは情動とフェルトセンスの役割を長年かけて明確に区別してきました。にもかかわらず、実践において彼は、情動を排除してそれとは別のフェルトセンスを形成するべきだと主張したわけではありません。なぜなら、上記の会話部分でリスナーは、「それ以外に」とか、「その外に」ではなく、「その中に何がもっとあるか見てください」と言っているからです。『プロセスモデル』よりも実践的な著作である『フォーカシング指向心理療法』の中の次の一節を見てみましょう。
そして、次の一節は、「悲しみ」と呼ばれる情動が、フェルトセンスを形成するきっかけになりうることを示す良い例のようです。
情動は、「悲しく感じるのはうちの猫が死んだからだ」のように「よくあるフレーズや状況のパターンの観点から説明することができる」 (Gendlin, 1996, p. 60; cf. ジェンドリン, 1998, p. 113) のです。「そしておそらく、この種の出来事はどんな人にも同じ情動を呼び起こすと思われる。そして情動はそこまでなのだ」 (Gendlin, 1996, p. 62; cf. ジェンドリン, 1998, p. 116) とその限界をジェンドリンは指摘します。だからこそ、私たちはフェルトセンスを形成する必要があるのです。フェルトセンスには、あなたを悲しませたものすべて、「状況全体の感じ、状況に至るまでの経緯、そして状況がどのようにあなたに関わっているか」 (Gendlin, 1996, p. 61; cf. ジェンドリン, 1998, p. 114) が暗黙的に含まれています。だからこそ、「うちの猫が死んだことで、私がこんなに悲しく感じるのはいったい何なのか?」のように、6つのステップの中の「問いかけ (asking)」 (Gendlin, 1981, p. 57-60; 1996, pp. 73-4; cf. ジェンドリン, 1982, pp. 57-60; 1998, pp. 134-5) をおこなうことによって、私たちはフェルトセンスに暗黙的に含まれているものを明らかにするのです。
おわりに
以上のように、情動とフェルトセンスの対比は彼の実践的著作と理論的・哲学的著作のどちらにおいても重要な課題として論じられていました。両感情の働きや特徴の理論的な区別を理解しつつも、実践面においては情動からフェルトセンスへのスムーズな移行を促すことは大事なことだと言えるでしょう。
参考文献
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Gendlin, E.T. (1973). A phenomenology of emotions: Anger. In D. Carr & E.S. Casey (Eds.), Explorations in phenomenology: papers of the society for phenomenology and existential philosophy (pp. 367-98). Martinus Nijhoff.
Gendlin, E.T. (1981). Focusing. 2nd ed. Bantam. Books. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村山正治・都留春夫・村瀬孝雄 [訳] (1982). フォーカシング 福村出版.
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Gendlin, E. T. (1996). Focusing-oriented psychotherapy: a manual of the experiential method. Guilford Press. ユージン・T・ジェンドリン 村瀬孝雄・池見陽・日笠摩子 (監訳) (1998). フォーカシング指向心理療法・上巻 金剛出版.
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Klein, M. H., Mathieu-Coughlan, P., & Kiesler, D. J. (1986). The experiencing scales. In L. S. Greenberg & W. M. Pinsof (Eds.), The psychotherapeutic process: a research handbook (pp. 21–71). Guilford Press.
久保田進也・池見陽 (1991). 体験過程の評定と単発面接における諸変数の研究. 人間性心理学研究, 9, 53-66.
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