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一点に集中して、ありのままを観察する

部派仏教においては、
その修法も「原理さえ調っている」のであれば、
すべてそれは破僧ではない。としたため、
その「瞑想」の対象も多種多様に発展していきました。

心を静めてただ座るだけではなく、たとえば

「仏の名をひたすら念じ、意識を満たす。」
「死体をずっと観察して、
腐敗し崩れていく様をひたすら見続け、執着から離れる」
「円筒の土盤を見つづけ、大地と一体になる。」

などの方法が生まれました。

 ここには仏教には、まずは
「瞑想をしてみて、そこから感じたものを信じる」
と言うことが重視されていることが、
共通するスタンスであるということです。

 まずは信じよ。ではなく、ひたすら体験してみて、
そこからわき起こる「内面からわき出るこころ」
を信じよというスタンスになるわけです。

ですから、どのようなものでもまずは「専心」してみて、
そこでうまれたものを信じることで、
「自分がブッダである」事に気づきなさい。
という繰り返しになるわけです。
その積み重ねで、自分の中のブッダ仏性にたどり着くわけです。

 言ってみれば、まずはあることに気を向け一点集中すること。
そして、集中している事象をひたすら観察すること。

すなわちこの行為が「瞑想」であるという定義です。
前者をサマタ、後者をヴィバッサナ
そう呼び、様々な形式で実践していったのです。

 この瞑想の論理が、インドから中国に伝来する過程において、
だんだんと体系化されていきます。

 この概念は智顗ちぎによって
摩訶止観まかしかんという概念で中国に紹介され、
理論的に体系化されていきました。

これが天台止観てんだいしかんです。

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