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「無縁社会」という言葉を「社会学」的に考えてみた

 造語=「無縁社会」の定義

前回の記事では、「無縁社会」という造語が、仏教用語本来の「縁」との混同があり、本質を見えなくしちゃってるんじゃないか?と言うようなことを書きました。
 なぜなら、縁とは、そもそも人がどう思おうと、そのままどんどん変化していくものですから、有るも無いも関係ないからです。
 だから、「無縁社会」なんてあり得ないのです。こんな言葉でくくっちゃうと、身も蓋もなくなるってものです。

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  あたしは、こういった「社会的孤立」は、近代思想が求めてきた帰着点だと思うのです。
 NHKさんが言う「無縁」の縁とは、前も言いましたが、地縁や血縁、友情や愛情といったゲマインシャフト(伝統的共同体)が「無い」社会である。と言う意味合いが強いのと同時に、近代化と同時に人々が求めてきた、ゲゼルシャフト(利益社会)からも脱落しつつある人々のことを、指しているのかもしれないですな。
 そうなれば、「孤立社会」の仕組みが解ろうというものですよ。

近代社会が進んできた道

 近代社会は、産業革命を境に、都市化や市場拡大を続けていきましたけれど、この経済システムの変化が、農村から人を都市に移動させたと言うのが今まで進んできた道です。
 ドイツの社会学者F・テンニースは、近代化とはこういった地縁・血縁共同体から利益社会に変化していくと指摘しました。

 高校の現代社会の時間とか、大学の社会学の基礎講座でも「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」は当然のように出てきますね。だいたい忘れてるかもしれませんが。

 ここまで触れると話がかなり大きくなりますから、「戦後日本」の社会変化から考えていきましょうか。

 敗戦直後の日本は、GHQ指令に基づく憲法改正により、「家制度」は否定されたんですが、「サザエさん」のような「大家族」はあたりまえにあって、言ってみれば「ゲマインシャフト」的だったのです。
 また、高度成長期になっても、政界・経済界全体が相互に支え合って、経済成長を進めてきたという歴史があります。
 
 しかしながら、経済高度成長は人口の都市集中を加速させました。

 で、人々の自由のベクトルは、田舎の地縁を嫌い、ライフスタイルの変化は「家付き・カー付き・ババア抜き」という言葉がこの頃はやったように、「核家族」というスタイルがもてはやされてましたから、「ゲマインシャフト」というのは言ってみれば「近代化への障害」という考えの人が多かったんではないですかね?と思うわけです。

 ただ、この頃はまだ、終身雇用という企業の制度が、言ってみれば「ゲマインシャフト」的な役割をしていましたので、都市の中に会社という「ムラ社会」があったわけです。
 すなわち、日本の高度経済成長の奇跡は、都会の中に会社という、言ってみれば「ムラ社会」を共存させたという事で、その驚異的な生産性を上げたというわけです。

 ただ、当時の一部のインテリなんかは、都会はすでにゲゼルシャフト(利益社会)だと、ほざいていたものもいましたが、自分は下宿屋のぬるま湯に浸っていながら「孤独だ」とダダをこねていたに過ぎません。
 少なくとも、昭和の時代までは、社会のどこかに、必ず「ムラ」があったのです。

「新自由主義」がすべてを変えた

 ところが、アメリカ生まれの「新自由主義」は、規制緩和、グローバリズムという黒船に乗って日本にやってきたわけです。バブル景気もそうなんですが、これで社会ががらっと変わってしまったんですよ。

 つまり、バブルは「投機ブーム」を呼び込み、お金のある人は、生産に投資するのではなく、金が金を生むという旨みに群がってしまったわけなんですな。つまり、ホントのゲゼルシャフト(利益社会)がやってきたってわけです。

 規制緩和やグローバル化は、ハゲタカファンドを生み、先物取引を生み、実体のないマネーが社会を牛耳るようになりましたから、こりゃ大変。
 独禁法が改正されて「持株会社(ホールディングス)」が認められてからは、ますますその傾向が強まりました。

 企業には非正規雇用社員が増え、地方は中央の大資本に完全にやられて、失業率が上がり地方都市からどんどん人が流れていきました。
 不安定な雇用が多くなりますから、出生率も下がるし、帰るべき故郷には仕事もない。

 こうやって、地域や会社は、だんだん「共同体」ではなくなってしまったわけです。仕組みが複雑化して、社会全体が巨大なシステムになってしまったわけなのです。
 しかも、それを動かしているのは、まさに実体のない「マネーによる利益の追求」に他なりません。

 ですから人々の「孤立化」の状況は、こういった社会的な変化の中で生まれてきたというわけです。

P・ドラッカーさんが、なんと戦前にこんな文章を残しています。

「一人ひとりの人間は、その意味を受け入れることも自らの存在に結びつけることもできない巨大な機構のなかで孤立している。社会は、共通の目的によって結びつけられたコミュニティではなくなり、目的のない孤立した分子からなる混沌たる群集となった」(『経済人』の終わり)

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