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「菩薩」とはこういうこと

 スーパーボランティアおじさんこと尾畠春夫さんが勲章をもらうことになったようです。
 当然だと思いますが、当の本人は、たいしたことはしてないと全然素っ気ない感じです。そもそも、もらってももらわなくても全然関係ないのでしょう。目的はそこにないからだと思います。

 ようは、そんなことはどうでもいいからです。くれるのなら「あ、そう」うん、それよりもっとふわっとしてるのかも知れない。

「菩薩行」とはまさにこの事だ。と思える方が、ニュース上に顕在するようになり、やはりおかしくなった世の中には、必ずこういった「聖(ひじり)」が現れるものなのだと、まさに手を合わせる気持ちでいます。こういう人を素直に「すごい」と感じられるところにまだ心の中には「仏性」があるのかもしれないと、逆にこちらがありがたい気持ちになるから本当に不思議です。

 さて、菩薩とは何かというところから述べていきますと、「菩薩」とは「菩提薩埵」=ボーデイ・サットヴァ( बोधिसत्त्व )の略称で、菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)という意味になります。すでに覚った存在は「仏陀」と呼ばれますので、仏陀になろうとしている、あるいはなりつつある人々であると言うことです。

 そもそも菩薩とは、悟りに至る前のお釈迦様の事を指しておりました。特に本生譚(ジャータカ)で語られるお釈迦様の前世の物語とそのあり方が「菩提薩埵」という呼び名であったというように思われていたのですが、そののち大乗仏教という概念が生まれ、菩薩とは、自らが悟ることを目指すのではあるが、そのためには衆生をあまねく救済する存在である。という思想が生まれました。

 すなわち誰もが悟ることができる素質を持っており、誰もが「仏陀」になれるのだという考えです。ですから、そのための発心や行こそがまさに仏陀への道=菩薩であるという考えが浸透したんでございます。これが「大乗仏教」の成立であり、このことを述べた経典が「華厳経」という訳なんですな。

 華厳経ではまず、仏道には3つの道があると述べています。一つは仏陀の言葉を受けて出家して修行する「声聞」。二つ目は、宇宙の真理である縁起の法に触れ、自ら悟りに向かって修行する「縁覚」。この二つは修行することによって「自らが悟る」ことしか目標にない。
 このことはあまりに了見が狭い。本来であれば、多くの衆生を悟りに向かわせることが本来ではないのか。この二つでは救いがあまりにも少ないと感じ、すべての存在には平等に仏性があり、これらを目覚めさせ、救いを行うことこそが本来ではないのかという考えを述べています。
 したがって、華厳経ではありとあらゆるものが実は「菩薩」の姿なのであると説いているのです。すなわちこれを「大乗(大きな乗り物)」と述べており、ここの根本的な考え方から「大乗仏教」は始まっておるわけです。
 すなわち、「発心=菩提心」(悟りを求める心)をおこし、自らの修行の完成(自利行)と一切衆生の救済(他利行)を求めて修行を実践するものはすべて「菩薩」=(成仏)であると定義したのです。ですから、大事なことはその存在というより、心がけや行動であろうということです。
 華厳経には、「善財童子(スダナ・クマーラ)」という求道する主人公が登場し、文殊菩薩の勧めにより、53人の様々な人に出会い、その都度いわゆる「経験値」をあげていくんですね。戦うとかそういうことではなく、それぞれの人がそれぞれのやり方(方便)によって他利行を行っているわけです。それに感化されながら悟りへの道を深め、最後のラスボス=文殊菩薩に出会ってついには悟りを開いた。という仕立てになっております。

 さて、お話を今回の「スーパーボランティアおじさん」にあててみます。ボランティアとはそもそもが「利他行」です。

 ボランティアの基本とは何かというと、社会科学的にいいますと
1、自主・自発 2,社会・公共性 3,継続性 4,無償性 5、先駆・開発性 にあるといいます。
 特に5番目の開発性とは、ボランティアはただ救済するということではなく、当事者の主体的な生活の課題をともに解決する。という新しい概念が述べられています。

 このおじさんは、「あたしは勝手に来て手伝わせてもらっているだけなんだ。」という言葉を言っています。

 つまり、菩薩の利他行たるゆえんです。「救ってやる」という上から目線ではなく、自分も悟りに向かうために手伝わせていただいている。という心からの発心なのです。ですから、見返りなんかとんでもない、単発では意味がない、何かの役に立つことが大事、そして何よりも自分が好き好んでやっているから、「無心」そのものです。ですから、「信念に従って何だって言える」という自由無碍な存在に思えるのです。これがこの方を「菩薩」と思うゆえんなのです。

 こだわりやとらわれのない無心の行為が実は真の善行であり、それが布施行なのであるということなんです。それは妖しげな教団がいう「お布施」とは全く違うものなのです。つまりは、本来の布施行の結果、もたらされるものが功徳であるということです。分別の一切無い真如の世界は完全無欠で完全平等であるから「量」や「時間」の分別概念がありません。ですからすなわち「功徳」にも量と時間という分別概念が無いということになるのです。

 さらに、真の功徳とはつまり「功徳というこだわりの意識」を超えた「功徳」であるということなんです。あのおじさんが一切お礼とか、もてなしをあれほどこだわったのは、「何も見返りなんていらないのだ」ということなんでございます。すなわち「無功徳」という。無功徳こそ「真の功徳」であるというわけです。無功徳を積むことこそ最高の功徳であるとお釈迦さまは諭されていいます。本物の仏法を観るおもいがしてまさに感激です。

この記事は、あたしのブログ過去記事を加筆再掲しています。

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