見出し画像

どこかに私を待ってる人がいる


  華厳経という大乗仏教の基礎基本みたいな仏教の経典がございます。これにはまぁ、実にさまざまな方が登場してくるんですが、主な登場人物として真実の覚りの象徴としての「毘盧遮那仏」(ちなみに奈良東大寺の大仏はこの毘盧遮那仏です)で、これを一番最初に概念として述べる存在のとして「文殊菩薩」という存在が出て来ます。

 菩薩というのは「覚りに向かうために修行している者」という存在ですから、毘盧遮那仏の示す10カ条の教えをど~んと示す訳なんです。それを聞いて「覚りを求めて自分探しの旅」に出かけたい。と発願する「善財童子」という登場人物が出てきます。

画像1

 つまり、最初にに出会った文殊菩薩から聞いた、毘盧遮那仏の示した覚りの世界が本当なのかどうか、いろんな人に聞いて確かめるっていう旅に出るわけなんでございます。その数なんと53人にものぼります・・。

 なんか、この出会いのくだりだけで、全53回の連続ドラマが作れそうな勢いですよ。

 前半で文殊菩薩からレクチャーをうけた善財童子は、文殊菩薩に「今言った事を実際にやっている人がいるから、実際にお会いして尋ねてみなさい」とアドバイスを受けるわけなんですな。これは、どういうことかっていうと、「勉強して得たことを実際に確かめてみなさいよ」っていうアドバイスなんです。

 さて、それで善財童子はいろんな人にお会いします。経典の中ではこれらを「善知識」という言葉で括っていますね。
 言ってみれば「体験学習」というものでございましょう。で、ここでのミソなのが、53人一人一人、「たったひとつ」のことしか教えてくれないんです。で、時には「ちょっと違うんじゃないの?」って思わせるような「善知識」ッてのもあるんですが、善財童子、健気に53人にお会いするんです。

 何故かっていうと、肝心なところでこれらの人たちは次々に「私はこれしか知らないから、次を知りたいなら誰それを訪ねなさい(  ̄∀ ̄)b」って、童子をほっぽり出すんです。

 そうなんです、まったく五十三次なんですね。って深くは突っ込みませんが、どこかで聞いたことがございましょう、実はこれが由来してるんですから、さすがに奥が深いです日本文化。

 で、最後に善財童子は弥勒菩薩にお会いするんですが、そこで彼は「で、お前さんの本当の善知識って何なんだい?(  ̄O ̄)b」って聞かれるんです。で、童子は困っちゃうんですな。すると弥勒菩薩は、一番はじめにお会いした文殊菩薩がお前の本当の善知識なんだよって教えるんですよ。

 だから、もう一度文殊菩薩の所に行ってはじめから話を聞いてごらんって言うわけ。つまり、この事は-1×-1=+1の世界ですね。同じ1ではありますが、深みが違うんです。

 1は1なんだけど、ぐるっと回った1と、ただ概念だけの1は違う・・。そういう事なんでしょう。
 私を待っていると言うより、そのように「巡ってきた私」を待っている人は、あまたあるという事です。

  で、その巡り回った私に出会うべきは「普賢菩薩」であると文殊菩薩は促すわけなんです。この辺の比喩、面白すぎるのでシリーズにしたいくらいですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集