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日本の「企業内研究開発部隊」の変遷

はじめに

私は、これまでずっと製造業の研究開発部門に所属してきました。2019年頃から「どうすれば、当社の未来を支えるような新規研究テーマを生み出せるか?」というテーマで、調査・提言PJをいくつか行ってきました。研究開発は、いつの時代も、またどんな企業であっても、新規テーマの創出が大きな課題です。そのPJの中で、文部科学省が発行した2018年のレポートを見つけました。

本報告書は、製造関連の超大企業※の研究開発現場について、業務レベルの粒度で調査分析を行い、その研究開発システムの実態をまとめたもの。
(中略)
※本報告書における超大企業とは、大学、研究機関、大型実験設備等との研究開発連携を組織的に行い、企業規模の目安として資本金1,000億円以上、有価証券報告書記載の研究開発費の目安として1,000億円前後の企業を指す。

塩谷景一 (2018)
日本の超大企業の研究開発システムの実態 ― 製造関連企業の事例研究―」, 
NISTEP DISCUSSION PAPER, No.154, 文部科学省科学技術・学術政策研究所. 
DOI: http://doi.org/10.15108/dp154

このレポートは全編にわたり非常に勉強になるのですが、個人的に特にインパクトがあったのがp26などの「研究開発の考え方の変遷」です。読んでみると、電気機器だけでなく、日本のどの業界でも「戦後復興期(1950年頃)」「経済成長の鈍化(1975年頃)」「失われたXX年(2000年以降)」のそれぞれで、研究開発部隊のあり方・考え方に関して、変化があったようです。今回は、それらがどのように変わってきたかを整理いたします。

日本の「企業内研究開発部隊」のあり方 #一枚絵図

日本の「企業内研究開発部隊」の変遷

1950~ 0からの復興で日本産業のコア技術が蓄積

日本の経済成長を背景に、大きな1つの基盤研究所で様々な研究を長期スパンで育てた時期です。とにかく人がいないということで、逆に言うと「何をやってもよい」という状態になり、今後注目される製品や、国際的な技術誌に紹介された従来にない新製品や、新事業に繋がる開発を若手にもチャレンジさせ任せていた時代だったようです。

1975~ コア技術の蓄積から実用化検討へ

経済成長の鈍化も相まって、研究所の成果を工場が受け取れないことへの批判が出るようになり、開発センターに近い事業対応を意識した研究所となっていった時期です。それに伴い、巨大な基盤研究所から研究所の分散が起こっていったようです。

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