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ノーベル文学賞を読む:高行健『ある男の聖書』(集英社)

中国を語る上で避けては通れない歴史上の出来事がいくつかある。1966年から1976年まで続いた文化大革命もそのうちの一つに挙げられるだろう。起きた出来事の断片は日本に住む中国人から聞いたことがあるが、全体像をきちんと学んだことはない。不勉強といえばそうなのだろうが、意識的に、または無意識的にそこを通るのを避けてきたのかもしれない。うっすらと伝え聞く当時の様子は知れば知るほど恐ろしく、自分の心では受け止めきれないのではないか、今後どのようにその土地からやってきた彼ら彼女らと付き合えばいいのかわからなくなってしまうのではないか、という懸念があったように思う。

高行健が著した『ある男の聖書』は青春を激動の文化大革命に翻弄された男の半生を描いた作品だ。この物語は海外を転々とする“おまえ”と、文化大革命の中国を生きる“彼”の視点が入れ替わりながら進んでいく。この“おまえ”と“彼”は同一人物であり、過去を振り返る著者自身と言えるだろう。実際この作品は高行健の自伝小説と見て間違いないようだ。

現在を生きる“おまえ”はすでに故郷を離れて愛人である外国人女性とのナイトライフを楽しみ、自由を謳歌している。一方、記憶の中の“彼”もまた、孤独や不安からの一瞬の解放を得るために、本来は手を出してはいけないはずの女性たち(既婚者や自分より遥かに年下の女性など)と束の間の快楽を貪る。この物語の主人公である“おまえ”と“彼”は、その都度葛藤を抱えつつも欲望に忠実であるという点においては共通している。

かなり早い段階から性愛描写が続くため、一体何を読まされているのか不安になるが、“彼”が時代の大きなうねりに呑み込まれていくあたりになると、読み進める手が止まらなくなる。闘争のための闘争、裏切りのための裏切り、監視のための監視、仕掛けるか仕掛けられるか。生きていくために最低限必要な他者との信頼関係が、土台から壊されていく中で、いったい何を信じることができようか。“彼”の生きた時代を振り返ると、一切の倫理観が無用の長物となり、真っ赤な政治的スローガンだけが社会の規範となった世界で生き延びることの過酷さを突きつけてくる。

どこまでも緊張が高まっていく“彼”の物語とは対照的に、“おまえ”はいつも傍に外国人の女性をはべらせている。その奔放な生き様を見ていると、同じ人物の物語とは思えないことも多々あるが、“おまえ”は逃れられない過去の影に囚われていることが次第に
明らかになってくる。

基本的にこの作品は“おまえ”と“彼”が生きる二つの時間軸を交互に描いていく。しかし時折、特定の出来事を語るのではなく2人の内面を描いた抽象的な表現だけに特化した章が挟まれる。自身と文学をめぐる内的な対話、言論の自由が奪われていること(または享受していること)、あの時代に君臨していたある人物との架空の会話、そして“おまえ”と“彼”の主従関係からの解放、著者である高行健が絞り出したと思われる独創的なアフォリズムが散りばめられている。このように人称を入れ替えながら視点や感情を揺さぶる章立ては、一介の読者からすると読みにくいと言わざるを得ない。

しかしこの作品の読みにくさや捉えどころに迷うこと自体が、中国が経験したあの大変な時代を理解することの難しさを表しているのではないだろうか。日本の人口を遥かに超える数の人々があの激動の時代を生き抜き、あるいは道半ばで死に絶え、生き残った者だけが語り継いだ物語がある。無数の個人の記憶と体験の総体を「文化大革命」と名付けたところで、語り尽くせるわけもなく、受け止め切れることもない。『ある男の聖書』は歴史に誠実に向き合うことの難しさを突きつけているのかもしれない。

いわゆるユダヤ教やキリスト教の経典とされる聖書は、歴史、預言、詩歌、幻で構成されている。必ずしも書かれた順番に並んでいるわけではなく、次の書に移ると時代が全然違うということもざらにある。ベストセラーと呼ばれながらも読みにくさの点では群を抜いている。そう考えてみると『ある男の聖書』のなかで“おまえ”が自分のために書いた個人的な聖書もまた、読者として自分以外の誰も想定していない、他者を突き放した物語とも言える。“おまえ”“彼”そして著者である高行健は読者に共感や同情を求めていない。ただただ過去と現在の自分に向けて書き連ね「読者である“おまえたち“にわかってたまるか」と高らかに宣言しているように思えた。

高行健は1940年中国生まれ。1987年にフランスに移住し1997年にフランス国籍を取得している。2000年にノーベル文学賞を受賞。中華系としては初めての受賞であり、文学だけにとどまらず劇作家や画家としての活動もよく知られている。『ある男の聖書』の表紙の装画は本人が描いた水墨画から取られている。

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