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[文明懐疑論]最先端には未知への恐怖があり、底辺には人為への懐疑があり、それ以外の人はフリーライダー

<テーマ>

※「生への畏敬」文明人が原始的神秘に”畏敬”を抱いてしまう理由

※「文明の春夏秋冬」この季節変動を引き起こす要因について。

※なぜ、こんなにも”便利なモノ”がこの程度の”対価”で手に入ってしまうのか。

日常生活において、何事も怠らず、いかなる取引にも「正当な対価」を払っているとい自信を持って言える者はどれほどいるのだろうか。我々に怠慢と免責を許してしまう文明とは一体なんなのか。

仮定<”文明”があるならば>

文明という概念が見当外れでなく、文明的な社会というものがあったとするならば、そこに内包される価値の総量は時間経過と共に変動はあれど上昇していくはずである。こんな逸話がある。

ピカソの逸話:ファンに絵を描いてくれと頼まれたピカソは30秒で小さな絵を描き、「100万ドルだ。」と言って渡した。「これを描くのに30年と30秒かかったからだ。」と。

”文明”という概念とこの”考え方”はとても整合性が高い。

乱雑に大量に発生したものを精査し厳選するにも時間と労力がかかる。文明的な社会の在り様はまさに生命活動そのものだ。
だから「命は大切に。」「物を粗末に扱ってはいけない。」「命には価値がある。」のだ。
つまり、市場的な値段は変わらずとも、その文明性を帯びたあらゆる商品の”価値”は時間の経過とともに上昇しているのである。

疑問<なぜ市場価格はあまり変わらないのか>

先の理論:文明論的真価=(経過時間×平均努力量)

「時は金なり。」我々の多くは社会的に価値のある時間は正当に評価されるべきであると考えている。ならば、生きとし生けるモノが生きた”時間と意欲”が逐次、その社会の価値に加算されていくはずである。しかしそれは、我々生きるモノにとって当たり前の、存在条件そのものであるから、その価値をカウントすることを忘れてしまうのである。この忘れられた価値を「存在価値」と呼ぶと、以下の等式ができあがる。

積算存在価値=(経過時間×平均生存意欲)
【定義】
市場価格=(経過時間×平均努力量)ー(経過時間×平均生存意欲)

以上から導き出される文明と市場価格の関係。

【定理】
①努力量>生存意欲(勤勉or尻に火が付いた状態) ⇔ 市場価格上昇
②努力量=生存意欲(自然状態)⇔ 市場価格一定
③努力量<生存意欲(破損or怠惰な状態)⇔ 市場価格低下

<個人に目を当てると>(文明のパラドックス)

同じ文明発展段階にあっても、そこには大きく分けて3パターンの人が存在する。それは、文明に対して

1.十分満足できる者
2.過不足なく感じる者
3.さらなる発展を求める者

さて、ここで「最も恵まれない者」は誰か。

それは「1.十分満足できる者」。
なぜならば、彼らの市場価格は低下する一方だからである。満足する者には強い淘汰がかかる
ゆえに「我々はいつも不満足な方向へ駆動される。」
ここからわかることはつまり、

・文明は一度生じたら発展し続ける構造になっている

・文明的な社会は参加者に「不幸を要求し、満足を提供する」

大多数の開発欲求が飽和し、その変化に陰りが見えて来たとき、破壊的なイベントによって文明は崩壊し、また違う方で生まれ変わる。

・市場の存在は常に我々の最も根源的な価値である「存在価値」を圧迫する


ゆえに、何事にも専念することのできない人々は思う。
「このままでいいのか。いいはずがない。」
「こんな自分が生きていたって仕方がない。できることなど何もない。」「自分なんかが幸せになってはいけない。」と。


『あや嬉しや、科学文明。あな哀しや、人間疎外。』




関連:シュヴァイツァー、シュペングラー、マルクス、ヘーゲル、


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