「完済した」「走るべき行程を走り終えた」【なぜ我々は”生きている”ことができるのかについて】柔軟体操その2
始まったものは終わらなければならない。
世界の始まりが未だにわからないとは、なんと喜ばしいことであろうか。
始まりを”見る”ことは、その終わりの”予知”である。
誰も自分の始まりを”見た”ものはいない。
だから私たちは世々宙ぶらりんのまま、宇宙の塵芥としての日々を送ることができる。
私たちは人が生れるのを見てそれに自分を重ねて自らの誕生を信じ、人が死ぬのを見てそれに自分を重ねて自らの入寂を信じるだけだ。
自身の始まりを”知る”ことは、来たるべき終わりの始まりである。
あらゆる人は自身の想像の中で勝手に生まれ、想像の中で勝手に死ぬ。
終わりたくなければ、始めなさるな。
長く続くものほど、その出生は不明であり、
それゆえに終わりも曖昧なものとなれる。
始まらなかったものは、始まり続け、なおかつ終わり続ける。
終わったものは始まらなければならない。
あるもの(=nと定義)が終わり終わり、
終わりが確かに見届けられたとき、
そこには見届けた者と、終わりの残滓が漂う。
それは始まりがあった確固たる証拠であり、
また、何かが始まる予兆でもある。
以下、nを終わらしめた者の始まりの有無について場合分けを行い、その何たるかを考える。
〈α(n):nの終わりを見届けた者が始まりを有する場合〉
終わりを見届けた者の始まりは、それを見た者の存在を必要とする。
見届けた者の始まりを見た者が始まりを有するのであれば、
〈α(n-1):nの終わりを見届けた者の始まりを見た者が始まりを有する場合〉
〈α(n-2):~~~〉
αは時間を遡る形で、時間を進め、事象を決定付けてゆく。
これが時間の因子:『時子(α)』である。
対して、
〈β(n):nの終わりを見届けた者が始まりを有しない場合〉
終わりを見届けた者の始まりを”見た”ものがいないのならば、
終わりを見届けた者と同一の者がnの始まりを見たということになる。
始まりなき終わりは、終わりの始まりを有しないため、終わりきることはないからである。
nを終わらせた者をここでは仮にYと呼ぶことにする。
・nはYにより生ぜられ滅せられた。
・Yはnの終わり続け、終わり終わるのを見た。
・しかし、Yが生じるのを見た者はいない。
・しかし、以上の事実を知る者がここにいる。
・Yはあなたの想像の中にいる。
・Yはあなたの想像の中で始まったことをあなたは知っている。
・Yはあなたの想像の中で終わりを予知された。
nの終わりを見届けた者(=Y)が始まりを有しない場合、
Yはあなたの想像に起因するため、
Yの始まりをあなたの始まりと同一のものとみなすことができる。
あなたが始まりを有する場合:α(Y)は、α(n)上の事象として認められる。
またあるいは、
あなたが始まりを有しない場合:β(Y):β(β(n))であり、
そのβ(Y)も、あなたを包み込み、内包し、認識し、認知するあなた'をここに、さも必然的に、自然に召し、生じせしめる。
そして、この入れ子構造は、あなたが始まり、終わるまで永遠に無限に広がり続ける。
これが、『βの無限膨張』であり、
終わりなきもの、始まりなきものを特徴づける現象である。
自らに自らの始まりを有しない私たちは、
この始まりを知られざる宇宙同様に広がり続ける。
それの認知的入れ子構造が、認知の重なり合い、
認識の膨張、それが、時間をαと逆の方向、
すなわち、経験的な時間の方向に世界を進ましめているのである。
"何らかの事象が存在すること"
それだけでこの世界は、あなたを要し、時間の流れを要し、あなたの経験を要し、あなたの日常を要する。
「何かが存在している。」という思い
それは未だに終わりを知らぬあなた自身の、
まだ見ぬ始まりの宣言であり、
あなたの存在の証であり、
あなたのこの世における必要性の根源である。
何かを思い、
何かを感じること。
ただそれだけで、
あなたはこの世を存在せしめているのだ。
時間を遡り、事象を決定付けていく流れの因子『α』
認知という入れ子で、自身を膨張させ、無限に時を進める『β』
なんと狂おしい始まりと終わりの論考、ここに終わる。
そう宣言する私は、自身の始まりを知らず、終わりをも知らず、
ゆえに、ここに生きている。
その無知ゆえに、今日ものうのうと生きていられる。
時子の流れを自己膨張に換えながら。
でも結局±0なんだよなぁ(´・ω・)
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