過ち:過つことの正しさ
自然は自然に対して過つことはない。
対して、人間がその稚拙な理性ゆえに少なからず過つことは自明であり、人の過ちを過ちと呼ぶことすらおこがましく、人はその過ちまで含めて人間でありこれは自然に属するものであるから、人が過つことは大いに正しく、もはや過ちとさえ呼べない。
万事ただあるべくしてあるのみ。
「生命的変化(偶有性)の本質は、無数の過ちと犠牲とを輩出する時間の流れにある。」
現存するものが実際に残っている理由は、特に何かが優れていたわけでも、特別に適応力が高かったわけでもなく、ただ、「生まれて生んだ」そして「途絶えなかった」だけである場合が非常に多い。
実際、生き物はどれも珍妙で、なぜ彼らがそのような風貌なのかを1から説明しようものなら、その父母のさらにその父母の、、とただ執拗に形質の足跡を辿る以外に、腑に落ちる解説の方法は存在しないだろう。
環境云々、競争云々という進化論的な説明は、あくまで包括的な話であって、個々の命の繋がりは本来ならばもっと特異的で奇抜さに富んでいるはずだ。それに、ラブストーリーを一般化するのは野暮というもの。
・過ちとは何か
理想と現実の乖離を過ちと呼ぶのであれば、理想を持つことが過ちにつながるということになる。
「本来ならば~」「本質はもっと~」「実質~」「常識的に~」「〜べきだ」「〜はダメだ」
分不相応な目標や正解を想像し、設定するから我々は過ちを犯すのだ。
しかしそれ自体は、何ら悪い事ではあるまい。
「過ちでないもの」の他がすべて過ちだとしたら、生き物が過たない方法は「存在しない」以外にないような気がする。
過ちを咎めることは、生きることを咎めることだ
過ちを非難することは、生きることを非難することだ
過ちを未然に防ぐということは、生きることを未然に防ぐということだ
過ちあっての生命だ。
生命は過ちにまみれている。
生命は過ちで動き、回っている。
人の道理は狭すぎる。そして偏屈だ。
人の規律は堅すぎる。そして軽薄だ。
生命が妨げられている。
皆が一斉に喜ぶ答えなんてない。
皆が一斉に幸せになる方法なんてない。
あるはずないだろ、そんなの。
あるとしたら薬漬け&飼育箱の中だけ
金と力が命から過ちを吸い取っている。
金と権力はそれこそ過ちからできている。
虚構が命を食いつぶしている。
過ちの正しさ、過ちの生々しさ、過ちの温かさ、過ちの優しさ
どれも安心安全な社会には存在しないもの
命から過ちを除いたら、生命はそこから腐敗する。
規制は内的なもの以外ぜんぶウソだ
我々の過ちを悪と呼ぶな
過ちを避けすぎたのだ。
積み重なった不履行の過ち
何を求め、何を理想とし、それに向けてどう過つか
我々がすることのうち、もはや過ちでないことはない