「異常な人なんていない」精神的抵抗と自切・生きづらさによる生理的防衛反応
下記の症状・性向の数々。これら精神的不全症状のほとんどが個人の性格に起因するものでなく、むしろ全くの正常な反応だとしたら。これらの問題の要因の大部分は急速に変化した現在の生活様式と生活環境にあるとは考えられないか。
{アダルトチルドレン・モラトリアム・ピーターパン症候群・精神疾患・ADHD・全般性不安神経症・小児病・ニート・依存症・HSP…etc}
<その理由-社会と個人->植生学の視点から
高ストレス→”成長停止”。低刺激→”徒長(つるぼけ)”。
昨今の社会は肉体的に弱い人をよく守ろうとはするが、精神的に柔和で心優しい善人にはよく鈍色の牙をのぞかせる。(正直者が馬鹿を見る。)そこで抑圧された彼らが身を守るための方法が上記の症状である。同様の症状は成長停止応答として植物においてもよく見られる。【成長停止:高山、沿岸や荒地など環境ストレスの強い環境に生息する植物がその環境下で生き残るための戦略】
(植物に例えられても、、と思われるだろうが、実際、定住生活を営む人々(somewhere族)は社会のグローバル化によって比較的にますます動物から植物的生態に近づいたとも捉えられる。)
誰しも精神的によりよく生きたいはずだ。しかしそれを肉体と社会が阻害する。身体あっての心だから、徒長した精神が社会の方向性にそぐわなければ剪定し調節しなければならない。トカゲのように尻尾を切ってでも、我々はどうにかしてまず身体を生かそうとする。これは社会に生かされている現代の多くの人々にとってもはや当たり前のことで、精神と肉体の感覚的自由を確保する上で避けては通れない理術となっている。慣れないセルフカットでは多少切りすぎてしまったり、かえってバランスを崩してしまったりすることもあるだろう。このような徒長はペットの爪などのように、健全な摩耗が起こらないような低刺激、愛着の不足、栄養過多などの要因で起こる。
<構造的原因-介入と放任->3つのパラドックス
肉体的原因:近現代の医学は、表面的な対症療法の領域においては発展・普及したが、根源的で最も効果的で合理的な治療を強く避けてきた。その療法は俗に自然淘汰と呼ばれおり、一生物種として最も理に適った病理対応の一つである。ある世代で阻害された自然淘汰は、世代を繰り返すごとにその作用ポテンシャルを増すであろう。大徳は生死を生死に任す。(名医のパラドックス)
精神的原因:{自由、幸福、尊厳、責任、善悪、道徳、感情}これらは実体のない概念に過ぎない。そもそも認識不可能ものについてあまりに深く考えすぎると、哲学者でもない限りトートロジーに陥り身動きが取れなくり衰弱する。また自然権は自然権と言われた時から自然な権利ではない。大道廃れて仁義あり。(良憲のパラドックス)
社会的要因:我々は互いを生かすことによって、圧倒的に生かされている。また、しかしその中でも受動的な生を押しのけて能動性を発揮し、健全に生きられる人が増えれば増えるほど、社会はさらにその苛烈さを増す。悪貨は良貨を駆逐する。(安全圏のパラドックス)
<まとめ>
ある人物だけが構造的生理的に異常であるなんてことはあり得ない。我々はその身に許された正常な反応しかできないのだから。その意味で、現行の医療とは全体が担うべき社会構造的病性の責任を弱った個人に押付ける制度と化しており、その責任を負わされた者はむしろ大きく胸を張っていいはずだ。現代において彼らこそいかなる健全な者たちよりも寛大で偉大である。
病気は恥ずかしいことではないし、個性を恥じるなどもってのほか。
このもどかしさ、やるせなさは、民衆の個人主義の功罪に関する理解不足に起因する。事体を単純に二分して良い面を賛美し、悪い面から目を背け続ける現代の快楽主義的傾向。
戦前、どの国よりも全体主義的であった日本、禁欲があまりうたわれなかったのは皆が真摯に内なる快と欲への指向に向き合っていたからに他なるまい。まぁ、どうしようもないような小狡い輩も多少はいただろうが、それでも今よりは、、
「大道廃れて仁義あり。」
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