触れれば在り方が伝わってしまう。
「ふれる」って行為は
ふれてもいいよって関係性があれば誰でもがすぐ出来る。
ところがただ「ふれる」って行為が持つ力を
体験で知っている人が少ないがために
今の時代でさえ触れて病気が治るなんて謳い文句の宗教ビジネスにはまる人が跡を絶たない。
もんだり、さすったりって行為なしで
ただふれる、ただふれてもらう体験って
人生にほとんどないような気がする。
ただふれるってことが成立しているのは
ふれる=愉気になっているってことが大きい。
ふれている手のひらで気の感覚を感じて
手のひらから気を送り出していく。
愉気の手であれば多くの情報を感じとることができる。
見た目はただふれるって行為のままなんだけど
中身はただふれるって行為じゃなくなる。
生じる気の感応がまず違ってくる。
ところが実際に愉気をしていて
ぼくが呼吸を止めてしまうと
心地いい感応が生じにくくなる。
受けている人にもバレてしまう。
敏感な人なら息苦しくなっちゃう。
ぼくがメガネをして愉気をしたら
いつものように心地よくないって
すぐにバレてしまう。
ぼくがマスクをして愉気をしたなら
いつものように心地よくないって
やっぱりバレてしまう。
愉気でただふれて心地いい気の感応が生じるためには
術者であるぼくが滞りなく深い呼吸をしていて、自然体であることが大切だって
ただ「ふれる」ってことは教えてくれる。
※あわせて読むといい記事