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國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』
読んだきっかけ
ハン・ガンの小説『ギリシャ語の時間』を読んで、古代ギリシャ語には能動態でも受動態でもない、中動態という文の形態があることを知りました。
文法として勉強したいというより、『ギリシャ語の時間』をもっと理解したくて、中動態がどんな風に世界を捉えて使われていた言葉なのかを知りたくなり、難しいけれど國分先生の本を読んでみました。
何についての本か
本書は医学書院のシリーズ『ケアをひらく』として刊行されています。
依存症患者とそうでない人との通じ合えなさは、使っている言語の違い(世界の捉え方ということでしょうか?)が障壁になっているのではないか?薬物やアルコールに依存するのは100%本人の責任だと言えるのか?という疑問から始まり、
行為の原因とされる自発的な意志の存在について問うため、能動態(する)ー受動態(される)の二元論で捉えられる言葉の世界について考え直す、という内容でした。
行為には必ずしも意志を伴うわけではない
哲学の世界において、人の行為は意志が原動力となるのではなく、置かれた諸条件で決まるとのこと。つまり行為は必ずしも能動的とは言えません。人の意志が無から生じることはなく、人は置かれた環境で選択を行っているとされています。
そして完全には自発的と言えない行為について、能動態の文では説明しきれないものがあり、中動態はそういった行為を表すのに適切な表現であるとのことです。
中動態が使われていた世界では、主語と行為が強固に結びついていたわけではなく、中心は行為者ではなく出来事の方でした。出来事は自然や環境がもたらしたもので、行為者が単独で起こしたものではないという捉え方です。
私の疑問
こうした考えは、現在不本意な状況にある人にとって、全て自発的に行った結果だと突きつけられるよりも救いになるところがあります。
また、そのような他者について考えるとき、100%当事者自身の意志によるとして結果への責任を追求するだけではなく、そうなってしまった背景を捉え理解に努めるのは、支援者や社会にとって必要な視点でしょう。
しかし、そうであれば個人である自分の存在を考える時、所詮自分の運命は波のように押し寄せる外部の力で決まってしまうのか、という無力感もわいてきます。
自分がこう在りたいと考えている生き方って、波のように流されて行くものなのでしょうか。
スピノザの「変状」は中動態で表す
本書では、外部からの刺激による人間の行為について、スピノザの考えが説明されています。
個体が一定の性質や形態を帯びることを変状といい、外部の刺激によって起こります。人間において感情の変化として説明されています。
変状の過程において人間の内部で作用する力が人間の本質とされています。また、自己の存在に固執しようと勉めるコナトゥス(努力)がその人の本質であるとも述べられています。
同じ刺激を受けても人によって違う感情を抱きます。例えば、財布をなくして悲しくなるか、新しい財布が買えると喜ぶか、という風に。
同じ人でも刺激を受けた時と場合によって違う感情を抱くでしょう。
筆者は、この内部で起こる変状を中動態で表す領域として捉えます。変状の質によって能動とも受動とも捉えられるからです。
スピノザは、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現できている時、われわれは能動であり、
逆に外部の刺激に圧倒されるとき、そこに起こる変状はわれわれの本質をほとんど表現しておらず、刺激を与えた外部の本質を表しているので、われわれは受動と言える、と述べています。
受動の状態にあっても、外部からの刺激を明晰に認識することで抜け出すことが出来る、とスピノザは述べています。
筆者は例えとして、人から罵詈雑言を浴びた時、怒りに震える状態(完全に受動)から「なぜこの人はこんな酷いことを言うのか」と考えることで、内なる受動の部分を減らすことが出来ると述べています。
私たちは純粋に能動的にはなれませんが、受動を減らして能動を増やし自分の本質を保つ=自分らしさを守りつつ世の中を渡って行ける可能性があるのだと示されたように思いました。
強制から逃れて自由になるために
筆者は能動ー受動を「自由ー強制」に置き換えて説明します。確かにそちらの方がグッとしっくりきます。
私たちは、置かれた環境で自由になるために、刺激をなす外部と変状する自己についてよく認識して思考する、そして自分らしさ=自由を保つために感情の持ち方をコントロールして行く。
自分を振り返ると、圧倒的な外部の刺激によって、うちなる感情が悲しみに支配されることがあったのですが、ただ波にのまれるのではなく、自分なりに自由になる術を模索して行きたいと考えます。
ただ、私は環境や関係について認識して考察すればするほど悲しみが増していったりすることがあります。
それは、私の本質フィルターを通った結果?
悲しむように変状する本質(汗)
「自分らしさ」も環境からの刺激で変わって行くものであることは認識しておきたいし、行く末だけでなく来し方を振り返ることも大切に思います。
さいごに
ここでは中動態の文法的なことは触れませんでしたが、勉強になりました。
『ギリシャ語の時間』の2人、特に言葉を失った女性は、どのように世界を捉えているのか、今一度考えながら読んでみたいです。