きっかけは一つじゃない。
別の人の彼女になって、だからもう会えないのは分かるけど、ごめんねと言うのが理解できない藤田です。
さて、今回は「きっかけは一つじゃない。」というテーマでお話させていただきます。
この記事で「要因≒きっかけ」と書いたのですが、みなさんも何か始める時とかはきっかけがあるんだと思います。
僕もこうしてnoteを毎日投稿するようになったのも、とあるYouTubeの動画を観たのがきっかけでした。
上の記事を読んでもらえれば分かるんですが、「要因(きっかけ)」は複数あると書きました。
みなさんのイメージからすると、「きっかけ」は一つというのがあると思います。
実際にさっき僕もきっかけは「動画を観て」という一つだけでした。
本当にそうでしょうか。
僕は「動画を観たから。」という薄い理由だけでこの毎日投稿を始められたとは考えられません。
言葉を選ぶのが難しいのですが、「きっかけ」は絶対に複数あるわけですが、一つのことで始められることも素敵です。
例えば、親が病気で亡くなってしまった。だから医者になろう。これもきっかけは一つに見えるし、素敵です。
でもそのきっかけが起きるまでの過程において、絶対に他のきっかけが存在します。きっかけのきっかけです。
親が自分のことを大切に育てていなければ、死んでも医者にはなろうとそんなには思わないと思います。
僕は、毎日勉強して、自分に知識が身に付いていて、アウトプットしないと忘れちゃうという動画を観て僕は毎日投稿を始めました。
これって、勉強してなかったら投稿しようと思わないし、知識を得てなかったらくだらない投稿しかできないはず。
だから、きっかけの前にはたくさんのきっかけがあることを忘れちゃいけない。
一番分かりやすい例でいうと、恋愛です。
超好きだった人に振られて、よく「時間が解決してくれる。」という言葉がありますが、その人は良く思って言ってるのかもしれませんが、その言葉僕は嫌いです。
その経過した時間の中に、寄り添ってくれた人の言葉や、予定を埋めて楽しみな出来事、そういったことから「時間」が経つから解決できるのです。
なのに、吹っ切れたきっかけは「〇〇」と一つに明言してしまうのは、人として良くないと僕は思います。
思ってても内に秘めとくか、きっかけにしてくれた人だけに伝えればいいと思います。
「きっかけは一つ」という考え方は、「人として」良くないことが分かればやめた方がいいということが分かると思います。
携わってくれている方、そのまた先の方までにも失礼になり得ます。
想像して想像して生きていきましょう。
ではまた!