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松竹伸幸氏の共産党除名処分訴訟を読んで絶望を感じた……。

こんばんは。
最近、法律書や裁判例の研究にこっています。その中で、こんな事件を見つけました。

なんでも、去年2月にあの日本共産党を除名されたという方が、その除名処分を争う訴訟を提起されているようなのです(原告代理人、平裕介、伊藤建、堀田有大弁護士、被告代理人、小林亮淳、長澤彰、加藤健次、尾林秀匡、山田大輔弁護士)。

その訴状や準備書面が一通り公開されているので、早速読んでみたのですが、感想として、あまりにもひどい訴訟だと思いました。

※以下、縷々述べますが私の素人目線での法的評価と感想です。

問題1 共産党袴田最判に対する説得的な反論ができていないこと

訴状でも述べられているとおり、同じ共産党を対象とした事件の最高裁判例として共産党袴田事件の判例(最判第3小判昭和63年12月20日集民155号405頁)が存在し、

「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当とし、したがって、政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばないというべきであり、他方、右処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合であっても、右処分の当否は、当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限り右規範に照らし、右規範を有しないときは条理に基づき、適正な手続に則ってされたか否かによって決すべきであり、その審理も右の点に限られるものといわなければならない。」

と判示されています。
この事件はあまりにも有名で、さすがに、原告側の訴状も、この事件を踏まえた主張に(一応は)なっています。

しかし、原告側の主張は、この判例を覆し、松竹氏に対する除名処分が違法無効という判断を求めるにはあまりにも無力だと感じました。

原告代理人は、

「しかしながら、共産党袴田最判は、小法廷限りの判断であることに加え、民集登載判例でないことから、その先例的価値はない。仮に、先例としての通用力があるとしても、上記説示は判例変更されるべきである。

訴状より

とした上で、その理由として、令和2年最判(最大判令和2年11月25日民集74巻8号2229頁)が、地方議会における出席停止の懲罰の適否は司法審査の対象にならないと判断していた昭和35年最判(最大判昭和35年10月19日民集14巻12号2633頁)を判例変更したことを挙げます。
その判例変更について、原告は、いわゆる「部分社会の法理」を最高裁が撤回したものであり、その説示の中でも、宇賀克也裁判官が

「法律上の争訟について裁判を行うことは、憲法76条1項により司法権に課せられた義務であるから、本来、司法権を行使しないことは許されないはずであり、司法権に対する外在的制約があるとして司法審査の対象外とするのは、かかる例外を正当化する憲法上の根拠がある場合に厳格に限定される必要がある。」

と述べており、そして、八幡製鉄最大判(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)では、

憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。
そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。」

との判断が存在するから、

①裁判所は原則として司法判断を拒否することができず、拒否できるのは憲法に根拠がある例外的な場合だけであるところ(規範)
②八幡製鉄事件では、最高裁は、政党に憲法に基づき特別な地位を与えてはいないと述べているので(事実)
③憲法は政党である共産党に特別な地位を与えておらず、その除名処分は司法判断の対象にならなければならない。①と矛盾する袴田事件判例は、変更するべきである(当てはめ)

というのです。

しかし、素人目に読んでも、袴田事件判例は、「政党の結社としての自主性にかんがみると」との書き出しで始まっており、憲法の明文(21条1項)に規定されている結社の自由という憲法上の根拠を前提として、「政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当」とするとの判断に至っており、憲法により直接的に「特別な地位」を与えられていないとしても、宇賀意見にいう「司法権に対する外在的制約があるとして司法審査の対象外とする……例外を正当化する憲法上の根拠」には該当するように思えました。

それでは、八幡製鉄事件にいう「憲法は政党に特別の地位を与えていない」との説示についてどう考えるのかということになりますが、そもそも、宇賀意見が司法権に対する外在的制約が存在するといえる条件として挙げている「憲法上の根拠」は、憲法により付与される「特別の地位」に限定されるものではなく、憲法から論理的に導きうる合理的根拠、という意味のように読み取れます。

そもそも、憲法により直接的に「特別の地位」を付与されているのは、天皇陛下と国会、裁判官ぐらいではないでしょうか。天皇陛下以外の国民や各種法人が、「特別の地位」を付与されていないからといって、司法審査の例外として扱えば違憲になるとすると、その宇賀意見を含む令和2年最判が

「出席停止の懲罰は,上記の責務を負う公選の議員に対し,議会がその権能において科する処分であり,これが科されると,当該議員はその期間,会議及び委員会への出席が停止され,議事に参与して議決に加わるなどの議員としての中核的な活動をすることができず,住民の負託を受けた議員としての責務を十分に果たすことができなくなる。
このような出席停止の懲罰の性質や議員活動に対する制約の程度に照らすと,これが議員の権利行使の一時的制限にすぎないものとして,その適否が専ら議会の自主的,自律的な解決に委ねられるべきであるということはできない。
そうすると,出席停止の懲罰は,議会の自律的な権能に基づいてされたものとして,議会に一定の裁量が認められるべきであるものの,裁判所は,常にその適否を判断することができるというべきである。
 
したがって,普通地方公共団体の議会の議員に対する出席停止の懲罰の適否は,司法審査の対象となるというべきである。 これと異なる趣旨をいう所論引用の当裁判所大法廷昭和35年10月19日判決その他の当裁判所の判例は,いずれも変更すべきである。」

と判示した趣旨に矛盾してくると思います。

なぜならば、令和2年最判は、原則としては、憲法により特別の地位を付与されていない地方議会の懲罰権について「議会の自律的な権能に基づいてされたものとして,議会に一定の裁量が認められるべきである」という従来の判断を維持しつつも、出席停止の懲罰については、その「性質や議員活動に対する制約の程度に照らすと、これが議員の権利行使の一時的制限にすぎないものとして,その適否が専ら議会の自主的,自律的な解決に委ねられるべきであるということはできない。」として、あくまでも例外として、地方議会の懲罰権のなかでも出席停止処分(及び、論理的に出席停止処分を包含する除名処分)については、司法審査の対象になると述べたものです。

憲法により特別の地位を付与されていない個人や各種法人については、一律に司法審査の対象外とすることはできないという原告の前提に立つと、出席停止処分未満の懲罰等については、「議会の自律的な権能に基づいてされたものとして,議会に一定の裁量が認められるべきである」と判示した令和2年最判の内容と矛盾します。

このように見てみると、原告の主張は、令和2年最判に基づくものであるかのように見せつつも、よく見ると、その令和2年最判を自己否定する主張であり、袴田事件判例が、憲法の結社の自由に基づくものとして政党の自律性を認め、その除名処分を司法審査の対象外とした論拠を覆すに足るものとは思えないのです。

問題2 労働組合に関する判例を単純化して政党における除名処分についての論拠としていること

第二の問題は、原告が、労働組合内部の除名処分等の判例多数を論拠として、最終的には既に袴田事件判例で結論が出ている政党の除名処分について語り、労働組合に関する判例を引き合いに出すことで、論理的に関連性の乏しい政党についても労働組合と同様の司法審査が及ぶはずだと主張していることです。

訴状を見ると、原告は、国労広島地本事件(最判昭和50年11月28日民集29巻10号1698頁)、三井美唄炭鉱事件(最判昭和43年12月4日刑集22巻13号1425頁)といった労働組合の内部統制権に関する判例を挙げ、

「労働組合にも憲法21条1項の保障する「結社の自由」が保障されることは言うまでもないところ、労働組合が徴収する臨時組合費という団体の純然たる内部事項であるにもかかわらず、最高裁はその当否を審査したのである。」

として、共産党の除名処分も、同様に、その結社の自由にもかかわらず司法審査が及ぶべきだと述べるものの、労働組合には、「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」との憲法28条の規定が及び、権利保障の名宛人が「労働者」であることから、労働組合であっても、労働者の団結権を侵害する内容の規約を定めることやそのような行為をすることはできず、労働組合からの加入や脱退を不当に制限する規約や行為は、原則として違法・無効になり得ます。

つまり、労働組合が組合員から徴収する臨時組合費については、憲法28条だけについて考えるとしても、組合員個人の権利・利益と組合の利益・利益について調和的に考える必要があるのであり、実際に、国労広島地本事件でも、最高裁は、

労働組合の活動が前記のように多様化するにつれて、組合による統制の範囲も拡大し、組合員が一個の市民又は人間として有する自由や権利と矛盾衝突する場合が増大し、しかも今日の社会的条件のもとでは、組合に加入していることが労働者にとつて重要な利益で、組合脱退の自由も事実上大きな制約を受けていることを考えると、労働組合の活動として許されたものであるというだけで、そのことから直ちにこれに対する組合員の協力義務を無条件で肯定することは、相当でないというべきである。
それゆえ、この点に関して格別の立法上の規制が加えられていない場合でも、問題とされている具体的な組合活動の内容・性質、これについて組合員に求められる協力の内容・程度・態様等を比較考量し、多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。

と判示しています。

つまり、労働組合が「結社」であって、その「結社」について司法審査が及ぶから、同じ結社である政党についても当然に司法審査が及ぶべきだという原告の主張は、あまりにも単純に過ぎ、本件の明白な先例である袴田事件最判に対して応答できているようには到底思えないのです。

問題3 共産党の内部での問題提起をせずに党内の問題を外部化したという点で明白な規約違反であること

ところで、そもそも、原告が共産党から除名処分を受けたのは、複数の理由に基づくものであるものの、

「出版した本のなかなどで、「党首公選制」を実施すべきと主張するとともに、党規約にもとづく党首選出方些や党運営について、「党内に存在する異論を可視化するようになっていない」、「国民の目から見ると、共産党は異論のない(あるいはそれを許さない)政党だとみなされるなどとのべ」

たこと、同じ本の中で、

「核抑止抜きの専守初動なるものを唱え、「安保を堅持」と自衛隊合憲を党の「基本政策にせよと迫るとともに、日米安保条約の廃棄、自衛隊の段階的解消の方針など、党綱領と、綱領にもとづく党の安保・自衛隊政策に対して「野党共闘の障害になっている」「あまりにご都合主義」など、と不当な攻撃を行っ

たこと、

そして、

わが党の調査のなかで、あなたはあなたの主張を、党内で、中央委員会などに対して一度として主張したことはないことを指摘されて、「それは事実です」と認めました。
わが党規約は、中央委員会にいたるどの機関に対しても、自由に意見をのべる権利を保障しています。異論があればそれを保留する権利も保障しています。しかし、あなたは、そうした規約に保障された権利を行使することなく、突然の党規約および党綱領に対する攻撃を開始し

たことが理由とされています。

そして、訴状を読む限り、それらの事実関係に争いはないようなのですが、実際に、共産党規約には、「どの機関に対しても、自由に意見をのべる権利」「異論があればそれを保留する権利」と明記されている一方で、「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。」とも明記されています。

一般的な読者の視点でこれらを読んだとき、少なくとも私には、党首公選制などの主張が共産党の現時点での決定に反する意見であること、それら意見を党内で主張する手続を踏むことなく突如出版することが党規約に違反する行為であることは、優に認められると思われました。

むしろ、鈴木氏という別の人物と出版のタイミングを合わせ、話題を呼ぼうとしたなどの指摘を合わせ考えると、そのような行為が党規約に反することを知りながら、出版物の商業的成功という商業主義の誘惑に負けて、あえて、それらの行為に及んだようにも読み取れます。

原告は、訴状では、調査手続が不十分だった、処分権者が支部ではなかった点で手続違反であるなどと述べていますが、実体的に見て党規違反であったことは争いがたい事実なのではないでしょうか。

また、原告は、同規約が憲法に違反し無効であるとも述べ、その論拠として、東電塩山営業所事件(最2小判昭和63年2月5日労判512号12頁)の「企業内においても労働者の思想、信条等の精神的自由は十分尊重されるべきである」との判例を挙げていますが、憲法の保障する権利は原則として私人間には適用されないという前提(三菱樹脂事件、最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁)の中で、内心の自由の保障は絶対のものとされているのに対して、表現の自由を含む他の権利については、対外的な行為であることから公共の福祉に基づく規制が及び、結社の自由をはじめとする諸権利と調和的に判断されるべきものであり、原告が述べるように、「たとえ私人間における法律関係であっても、憲法上の権利を制約する場合、違法性を阻却する特段の事情がない限り、不法行為が成立し、公序良俗に反する」ものではないことは常識の範疇だと私は思います。

そもそも、ある法律行為が公序良俗違反で無効であることと、ある事実行為について民法上の不法行為が成立することはその要件を異にするので、それらが等価であるように述べる(規約が不法行為……?)主張自体も問題ではないかと思います。

結論

その他にも思うところはありますが、いずれにしても、原告側の主張は筋の悪いものであり、公表されている共産党側の弁護団に一刀両断に付されているように思えました。

同様に共産党と闘っている神谷貴之氏のブログでも、共産党を相手取り裁判を起こすための弁護士を確保する難しさが語られていますが、少なくとも本件においては、その困難さの背景には、共産党の権威性や規模だけではなく、実際に規約違反と評価される行為をしているのに処分の不当性を語ることや、憲法の結社の自由に基づいて広い裁量が認められる政党の自治について、袴田事件判例の前提を導いた論拠に正面から向き合うことなく、令和2年最判を誤読した屁理屈(?)や、労働組合の事例を単純化して援用する論法で立ち向かうという構成自体に内在する問題があるように見受けられました。

実際に、答弁書においても、「訴状「第3」の第3項、 第4項、第5項についての認否及び求釈明に対する回答は必要ないと考える。」と、原告の主張の主要部分がほぼスルーされており、また、訴状と答弁書を読み比べる中で、共産党側の自信や、悪い意味で「格の違い」のようなものを感じました。

私は弁護士ではありませんし、代理人の先生方も存じ上げませんが、全体としてギクシャクとした印象の訴状と整然とした答弁書を比較して、裁判官が原告に有利な判断を下すことは考えにくいだろうな……と感じた次第です。

以上、勉強がてら公開されている訴状を拝読した感想ですが、後日のメモをかねてnoteにまとめてみた次第です。
判決が出たらまた振り返ってみようと思います。素人の考察を、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。






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