或る夜の出来事
ジェリコの壁…、ジェリコはエリコとも呼ばれ、新しいところだと冷戦時代にベルリンにあった東西を分断していた壁のような両者を仕切る壁のことを言います。
聖書の記述(『ヨシュア記』の6章) によると、モーセさんの後継者であるヨシュアさんはエリコの街を占領しようとしましたが、エリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができませんでした。
しかし、主の言葉に従って、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り角笛を吹くと、その巨大なエリコの城壁が崩れました。
フランク・キャプラ監督の1934年の名作『或る夜の出来事(It Happened One Night)』で、“ジェリコの壁”は重要な要素になっています。
この映画は恋愛コメディの教科書のような…もう古典と言っても良いでしょう。
公開されてから今年で90年が経ちます。
この映画がなかったら、この20年後に作られた『ローマの休日』も存在していなかったのかもしれません。
『ローマの休日』がない世界なんて誰も想像できないのではないでしょうか…。
原作はサミュエル・ホプキンス・アダムズさんの小説「夜行バス(Night Bus)」です。
名脚本家でフランク・キャプラ監督の相棒でもあったロバート・リスキンさんがシナリオを書きました。
当時はバスを綴った映画が何本か興行的に失敗していたことから、タイトルを『或る夜の出来事』に変更しました。
物語は…、
富豪の令嬢エリー(クローデット・コルベールさん)は、プレイボーイの飛行士であるウェストリー(ジェイソン・トーマスさん)との結婚を父親に反対されていました。
向こうっ気の強い娘に業を煮やした父親アンドルーズ(ウォルター・コノリーさん)はエリーを海上に浮かぶヨットに監禁してしまいます。
そのやり方にいよいよ反発したエリーはヨットから海に飛び込んで脱出に成功し、マイアミからニューヨークに向かう夜行バスに乗り込みました。
そこに乗り合わせたのが、上司との関係がうまくいかずに失業中の新聞記者ピーター(クラーク・ゲーブルさん)でした。
ほんの些細な勘違いから2人は座席を争って大げんかし、互いの第一印象は最悪でした。
エリーがゴシップ欄を賑わせている令嬢だと気付いたピーターはスクープを狙いますが、2人を乗せたバスは大雨で立ち往生してしまい、エリーとピーターは乏しい持ち金をやりくりして新婚夫婦と偽って安宿の一室に泊まることになります。
女の貞操と男の面目を保つ為に、ピーターは部屋の真ん中にロープを張って毛布を掛けることで“ジェリコの壁”と呼ぶ仕切りを付けます。
所持金も少なくなってきて、乗客の中にもエリーの正体に気付いて悪い企みをする人も現れたので、2人はバスを降りてヒッチハイクをしながらニューヨークを目指すことになりました。
苦楽を共にしながら、お互いに魅かれ合いますが、意地を張って素直になれません。
ようやくニューヨーク近郊のモーテルまでたどり着いた夜にエリーはピーターに恋心を打ち明けます。
しかし、ピーターは無一文で彼女と結婚するわけにはいかないと思い、夜中にエリーを残して1人でモーテルを出てしまいます。
2人の旅行記を新聞社に売って資金にする為でしたが、翌朝目覚めたエリーは彼に捨てられたと思い込み、父親に連絡を取りました。
エリーは半ば自暴自棄でウェストリーと結婚することになり、その知らせを聞いたピーターは憤ります。
結婚式の当日、ピーターはアンドルーズの元を訪ねて、今回の珍道中の僅かな経費を請求します。
その態度を気に入ったアンドルーズは、ピーターが本心ではエリーを愛しているのではないかと問い正します。
そして娘のエリーにも、結婚への迷いとピーターへの愛情を自覚させるのでした。
父親の助言を受けたエリーは、神父の前で新郎ウェストリーが“永遠の愛を誓います”と言った途端に逃げ出して、父親が用意していた自動車に乗ってピーターの元へと向かいます。
満足顔のアンドルーズは、ウェストリーに慰謝料10万ドルを払い、結婚を白紙に戻しました。
モーテルでの新婚初夜、エリーとピーターを隔てていた“ジェリコの壁”は下ろされました。
…という内容です。
当時のアメリカの映画は、“ボーイ・ミーツ・ガール”という典型的な法則に支配されていました。
1人の青年が1人の少女に会い、恋に落ちます。
そこでゴタゴタが起きて2人の仲は引き離されそうになりますが、その危機は克服されて、2人はめでたく結ばれます。
今でもそういうハッピーエンドな恋愛ドラマは焼き直しされ続けています。
そして、その中からも名作になり得る作品も誕生しています。
この『或る夜の出来事』もこの土台の上にいろいろな趣向を凝らして、巧みな話術で展開した作品です。
トーキー誕生から5年目で、フランク・キャプラ監督はトーキーを完全にマスターしたような形です。
『或る夜の出来事』は、第7回アカデミー賞で、主要5部門にノミネートされ、史上初の5部門制覇(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞)した作品です。
これまでの歴史の中で、この5部門全てを制したのは、ミロス・フォアマン監督の1975年の名作『カッコーの巣の上で』とジョナサン・デミ監督の1991年の名作『羊たちの沈黙』を含めて3作品だけという大記録です。
今年の第96回でも残念ながらノミネートの段階で可能性は絶たれてしまいました。
ところで先日、アカデミー賞のノミネート作品が発表されました。
個人的には子どもの頃から大好きなゴジラが70周年の年に遂にアカデミー賞…視覚効果賞にノミネートされたというとてつもない事件にもなり、宮崎駿監督の新しい名作『君たちはどう生きるか』も長編アニメーション賞にノミネートされ、個人的に大好きなヴィム・ヴェンダース監督が日本で撮影してくれた『パーフェクト・デイズ』も外国語映画賞ノミネートと…、私にとっては真の意味で祭典のようなイベントになっています。
最多ノミネートは予定通りと言いましょうか…、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』で13部門ということで、これまでのウィリアム・ワイラー監督の『ベン・ハー』、ジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』、そしてピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング~王の帰還』が持つ最多記録の11部門を超えての受賞の可能性もあります。
これがまた、私にとっては凄く嬉しいニュースです。
遂にアカデミー賞でも、ノーラン最強時代が到来の予感です。
映画130年以上の歴史の中でも最も才能豊かな監督だと思うので、そろそろアカデミーも認めないと何をやってるんだといった感じになってしまいます。
本来なら『ダークナイト』や『インセプション』で受賞していてもおかしくなかったわけですが、あれから10年以上経っても常に昇天してしまいそうな大傑作を発表し続けてきて、遂に今回…、賞レースの中心に君臨しています。
そんなアカデミー賞ですが、第1回目は1929年5月に開催されました。
1928年度の授賞式で、1927年1月1日から1928年7月31日までに公開された映画がノミネート対象でした。
その後の作品の選考対象は、1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品で、毎年11月に予備選考が行われて翌年の1月にノミネートが発表されます。
その後、映画芸術科学アカデミーの会員の投票が行われ、2月の最終日曜か3月の第一日曜に授賞式が行われることが多いです。
第1回は、1929年に設立された映画芸術科学アカデミーの夕食会の一環として、5月16日にロサンゼルスにあるルーズベルトホテルで行われた夕食会の際に舞台上で、3カ月前に授賞を通知されていた受賞者を招待して賞を贈与されました。
当初はオスカー像ではなく、同じデザインを施した楯が贈られたそうで、第1回の授賞式は5分程度で簡単に済まされたようです。
第2回から地元ラジオ局で実況が開始され、第17回から全国放送になりました。
現在のようにエンタテインメント色が強くなったのはアメリカが第二次世界大戦に参戦した1942年以降で、前線にいた兵士達を喜ばせる為だったようです。
ここで少し映画の歴史を振り返ってみます。
1930~40年代はハリウッド黄金時代と呼ばれています。
銀幕のスターが大勢登場しましたし、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた…という歴史があります。
今と同じで、世界中で戦争の機運が高まっていた時期です。
第2次世界大戦です。
その大戦の影響で、多くの才能豊かな映画人がアメリカに亡命しました。
亡命ではなく招聘された人や自ら望んでアメリカに行った作家も大勢いました。
映画製作本数は年間400本を超えていたということで、質的にも量的にもアメリカが世界の映画界の頂点に立っていました。
1927年の『ジャズ・シンガー』を機に、それまでの主流だったサイレントではなく、音声が作品の中に取り込まれたトーキーの時代が本格的に到来して、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流になっていきました。
アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪を犯してしまうような人たちに与える影響を憂慮する声が高まって、1934年には“ヘイズ・コード”と呼ばれる暴力やセックスなどを制約する映画製作倫理規定が作られました。
その後30年以上もの長い間、過激な暴力シーンや性的シーンは影を潜めて、1960年代後半に撤廃されて年齢別レイティングシステムに移行するまでハリウッド映画の表現方法に制限を設けました。
ここで今日の本題…1934年公開のフランク・キャプラ監督の『或る夜の出来事』です。
この作品のヒットで、アメリカではスクリューボール・コメディが流行しました。
20世紀初頭のサイレント期には、ラブ・ロマンスは優雅で洗練された古典的な風俗喜劇として描かれることが多く、コメディはコメディアンが転倒したりパイをぶつけ合ったりすることで笑いを誘うスラップスティック・コメディ…ドタバタ喜劇として製作されることが多かったのですが、1920年代末期にトーキーが普及してからは、会話によるジョークが可能になったので、新しいコメディ映画への道が開かれました。
アメリカは1929年の株価大暴落を発端とする大恐慌時代に入り、娯楽への支出を抑制するようになりましたが、その中で洗練された会話劇で人気を集めたのがエルンスト・ルビッチ監督の1932年の作品『極楽特急』と1933年の『生活の設計』です。
ヴィクター・フレミング監督の1933年の『爆弾の頬紅』などと並んで、ラブロマンスとコメディを融合させた新しい映画の登場に道筋をつけたと言われています。
その時代の変化の中で『或る夜の出来事』は公開されました。
この作品がスクリューボール・コメディというジャンルを決定的にしたと考えられています。
大富豪の父親から望まない結婚を押しつけられることを嫌って家を逃げ出した娘が、この家出話をゴシップ記事として売れるとにらんだ新聞記者と逃避行を一緒にするうちに恋に落ちます。
低予算で作られたこの映画が記録的なヒットになり、翌年のアカデミー賞でも主要5部門を独占する大成功をおさめたことから、この映画の配給会社であるコロンビアは1930年代を通じて同種のスクリューボール・コメディを作り続けることになりました。
身分違いの恋の行方、日常生活を題材にしたスピード感あふれる展開、気の強い女性が男と対等の立場で交わす軽妙な会話といった要素は、スクリューボール・コメディが衰退した後も長く模倣されていて、ハリウッド映画におけるラブ・ロマンスの一つの典型になりました。
それは90年経った今も続いています。
そして1935年、遂に世界初のカラー映画であるルーベン・マムーリアン監督の『虚栄の市』が制作されて、映画が更に進化していきます。
映画に部分的に音声を取り入れて、その後、今に続くトーキーの勃興を起こして大きく歴史を動かした1927年のアラン・クロスランド監督の名作『ジャズ・シンガー』の中の名台詞…
“Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet !”
“待ってくれ。お楽しみはこれからだ!”
アル・ジョルスンさんのこの名台詞は、映画史上初めての台詞と呼ばれています。
まさにこんな感じ……、映画を観て夢を持つ感じ…あぁ~ステキ♪
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?