「異彩」とともに、新たな文化をつくる
仕事って、何のためにあるんだろう。 ずっと考えてきたテーマ。 生活のため? 成長のため? 仲間のため? 挑戦のため? 使命のため?
人生には、思いもかけないご縁や機会がある。 人生の中で、決して失われることのない報酬を与えてくれる「志事」が、そこにはたしかに存在する。
みなさん、はじめまして。10月よりヘラルボニーに参画することになりました、曽根(@hsonetty)と申します。
自己紹介もかねて、私がなぜヘラルボニーへ参画させてもらうことになったのか、これからどんなチャレンジをしていきたいのか、について書いています。大変長文になりますが、お付き合いいただければ幸いです。
1. 自分史・人生紹介
まずは、家族の紹介を。
まずはかんたんに、家族の紹介をさせてください。わたしには妻が一人、娘が一人います。
妻は美大付属の中高大出身で、インテリアやアートが大好きです。美術館めぐりをするのが家族の楽しみの一つです。結婚したのは2008年ですが、出会ったのは小学生の時であり、そこから30年来の関係です。
娘は港区生まれ・目黒区育ちの10歳・小学校5年生ですが、生まれつきの遺伝子の欠陥による身体障害があり、立ったり、話したりすることはできません。が、感受性が豊かで、音楽が好きで、まわりで支えてくださる皆さんにも愛され、笑顔の絶えない美しい娘に育ってきています。
そしてわたし自身について。1981年生まれの42歳で、長野県生まれ・埼玉県育ち。父は北海道から、母は長野県から高校卒業後に東京にやってきて出会い、わたしが生まれました。趣味人の父親と努力家の母親、そんな両親のもとで、わたし自身も両親から大変に愛されて生まれ育ったと思います。
家族の誕生日がとても近く、娘が10月22日、妻が10月27日、わたしが10月31日とたてこんでいるので、10月末は、娘の誕生日、ハロウィーンもかねた夫婦の誕生日と、毎年、お祝いごとが「大渋滞」する傾向にあります。
モノクロから、カラーへ
自分の人生を振り返るときによく話させてもらうのが、「幼少期から大学まではモノクロ。大学2年生からそれがカラーになりはじめ、社会人になってあるタイミングから動画として動き出していく」というたとえです。
幼少期からのわたしは、愛されて育ちました。一人っ子でもあり、時代もめぐまれていたと思います。ものすごく裕福というわけではなかったですが、不自由もなく、誰かに何かを反対されることもなく、逆に「誰かに反対されてでもこれをやりたい!」というものがない少年時代でした。よくいえば優等生でしたし、悪くいえば空っぽの少年時代でした。
空っぽでモノクロだった自分の人生がカラーになり始めるのは、大学に入って、自身の専攻を選択するタイミングでのことです。友人の影響で、はじめて自分が本気でやりたいと願ったのが建築でしたが、これは親から反対されました。「建設なんて未来のない業界にむかうのは、やめておけ」と。
でも、そんな反対があったとしても、とにかく「カッコいい」と思った建築を専攻するのだと、いきまいて自分ではじめて親の反対を押し切って決めました。おおげさにいうと、自分自身の価値観ができあがり始める、そんな瞬間だったのだと、今ふりかえってみると思います。それが、自分の人生がカラーになり始めたターニングポイントです。
人生・キャリアのどん底で
社会人になってからのキャリアについては、何度か取材でお話させてもらう機会もいただいてきましたが、特にランサーズに入ってからの経験は、カラフルであると同時に、HARD THINGSも多かったです。とくに2016-17年ころの時期は自分の人生でもどん底のタイミングで、プライベートも含めて何もかもがうまくいかず、はじめて経営コーチングを受けてみたりもしました。
どん底の時期に思い立って書いたのが、「教えて、そね先生!」というブログです。全部で24回の連載で、毎回5,000文字以上、合計で約13万文字。8ヶ月間かけて、キャリアの考え方、仕事のノウハウ、戦略・事業のフレーム、経営・組織のフレームなどについて書きました。
そのなかでも第4回の「失敗を糧に」という記事では、わたし自身の個人的なこと、自分自身の器の小ささを実感したことについても少し書いています。「成人の発達段階」というフレームワークでいうと、自己中心的・道具主義的段階に自分がいるということに気づき、自身をアンラーニングするきっかけにもなりました。
では、そんな人生を歩んできたなぜわたしが、ヘラルボニーに参画したいと思うようになったのか。そのきっかけとなった、「人生のどん底の時期」の出来事について、ここからは書いていきたいと思います。
2. 人生のターニングポイント
娘と向き合えない自分
2016年末のこと。当時の私は、妻と、2歳になる娘と3人で幸せに暮らしていました。そんな家族で懸案だったのが、どうも娘の発育のスピードが遅い、ということでした。妻が医者に何度も聞いてお願いしてくれていた中で、はじめて医者の口から出てきたのが、「レット症候群」という病名でした。
主に女性において、約1万人に1人生じるという遺伝子の欠陥が原因となる神経発達障害で、多くは言語や肢体に不自由をかかえます。障害の度合いはさまざまですが、娘の場合、該当する遺伝子の欠陥の度合いが大きく、必然的にその影響も大きいものとなりました。
当初、この障害のことについて、わたし自身は、頭ではわかっていたものの、心では受け止めることができていませんでした。一方で、これを心の底から受け止めて真剣に向き合っていた妻は、そんな娘がどうしたらこの社会で生きていけるか、そして支えていけるか、来る日も来る日も、そのことばかり考えて、必死に行動していました。
決して、わたし自身、仕事が忙しかったとか、新しいスタートアップでのチャレンジを始めたばかりだったとか、そういう言い訳をすることは決してできません。単純に自分の問題として、わたしは、障害のある娘に、まったくもって向き合うことができていなかった。当然ながら、妻との心の距離は離れていきます。
小学校の同級生でもある妻とは30年来の付き合いですが、この時期、とても心が離れていたと思います。当然ですよね。自分が真剣に向き合っている娘に、向き合おうとしない夫が近くにいたとしたら。それはもう、怒り心頭だったと思います。いま思い返しても、情けない気持ちでいっぱいです。
衝突を経て、妻からの一言
そんな関係が1年くらい続いて、家庭の・家族の状況がどん底の中、夫婦で言い争いになったことがありました。きっかけそのものは、ささいなことだったと思います。そんな中で、妻の口から出た、本音の叫びが、今でも忘れられません。
胸に、この言葉は、深くつきささりました。そして、気づいたのです。
ああそうか、自分は父として、夫として、それ以前に一人の人間として、こんなにも目の前にいる、そして一番近くにいるはずの妻の願いを知ろうともせず、分かったふりをして、娘の障害のことを心で受け止めようともせず、ただただ漫然と過ごしていたのだ、と。
そこから、それまでの自分を反省し、遅まきながら、少しでも変わろうと努めました。それまでのことは覆せないけれど、娘に少しでも向き合おうとすると、自然と娘の小さな変化が、見えてくるようになります。一般的な言葉を話したり、立ったりするわけではないけれど、それでも、人間としての豊かな表情が、ちょっとした所作が、日々の生活の中で、どんどん変化していく。妻はそれを見て・感じて・喜んでいたのではないか、と。
そこから、自分の感覚も・考え方も、少しずつ変わり始めていったように思います。あの時まで何もしなかったふがいない自分の過ちが消えるわけではありませんが、逆にあの時、すこしでも変わろうとしなかったらと想像すると、それは大変に恐ろしく思えます。曲がりなりにも家族が一緒に過ごす今があるのも、あの時の妻の言葉があったからだと思います。
3. ヘラルボニーとの出会い
「不惑」から「知命」へ
あらためてですが、わたしは今、42歳になります。
40代になった自分が、自分の人生を振りかえったときに、強く心に残っていた言葉の一つが、この「美しい作品」という言葉でした。自分なりに、30代を通して、「仕事とは何か?」「働くとは何か?」を問い続けてきた中で、「仕事workとは、作品workである」という考えを、抱くようになっていったのも最近のことです。
論語の一節にある、「30代は而立、40代は不惑、50代は知命」とはよくいったものですが、40代の「不惑」に突入し、50代の「知命」に向かっていく中で、あらためて自らのミッションを考えるようになりました。
これまで自分自身がnoteや取材でも発信してきたように、わたしという「株式会社自分」にとって、仕事において、「いくらでやるか」「何をやるか」「誰とやるか」以上に、「何のためにやるか」のパーパス・ミッションは最重要のマターです。これなくして、自分はエネルギーを発することができません。
「美しく作品をつくる」
自分のキャリアを振り返ってみると、20代のわたしは「グローバルとローカル」をテーマにすごし(cf. “Think Globally, Act Locally”)、30代は「クリエイターのエンパワーメント」をテーマに、ランサーズでの経験の中で、「1億総デザイン社会をつくる」を個人のミッションにして生きてきました。
40代をむかえて考える中で、あらためて出てきたのが、「美しく作品をつくる」というテーマでした。そして、それを煎じ詰める中でかたまった「株式会社自分」のミッションが、以下のステートメントでした。
学生時代に建築学科で建築家を目指した自分。ランサーズという新たなモデルを通して、社会の価値観にチャレンジしてきた自分。障害のある娘をさずかり・父になり・40代になった自分。そして、社会の中で、少しだけ責任をもつ立場になった自分。それらの自分が、40代において「何のために生きるか?」のステートメントです。
シンクロするビジョンサークル
ヘラルボニーとの出会いは、わたしが40代の新たなテーマを立ててから、すぐのタイミングでやってきました。それは僥倖と言っても良いかもしれません。振り返ってみると、わたしにとってのヘラルボニーとのご縁は、本当に偶然の連続です。
最初のきっかけは、友人宅でのホームパーティのことでした。ホームパーティでご一緒していたエシカルスピリッツの山本さんがあつく紹介していたクラフトジンの美しい商品パッケージが、ヘラルボニーのアート作品によるものだったのです。
障害のある作家による、美しいアート作品。色鮮やかなパッケージのデザインの裏にある、ヘラルボニーの壮大なストーリーとチャレンジ。福祉×アート×ライセンスの組み合わせによる、これまでにないユニークなビジネス。
私は衝撃を受けました。そしてその衝動について何か表現できないかと思い、当時、NewspicksのプロピッカーとしてJ-WAVEに出演させていただいた際に、ただただ、このヘラルボニーのモデルに衝撃と感動を覚えたということを、5分の出演時間で話すことになります。
そこで奇跡が起こります。なんと、わたしのJ-WAVEでのこのなんでもない話を聞いてくださった創業者の松田崇弥さんが、MessengerのDMで直接連絡をくれたのです。何ができるかはわからないけれど、いずれ何かヘラルボニーのことを支援したり、前に進めたりするようなことができれば、と考え始めたのもこれがきっかけです。
偶然にもその約1年後に、ICCというベンチャーカンファレンスの場で今度は一緒に登壇させていただく機会をいただき、その後もさまざまな形でご縁をいただく中で、自分自身の40代のミッションと、「異彩を、放て。」のヘラルボニーのミッションは、自分の中でより深くシンクロするようになっていきました。
4. 希望ある未来へ向けて
社会への問い、新たな文化
ではあらためて、わたし自身が、ヘラルボニーで何をやっていきたいのか。これは一言であらわすのは難しいですが、わたしなりの現段階での考えは、「異彩を世界へ放ち、社会へ問いを投げかけ、新たな文化をつくる。」ということです。
世の中の製品やサービスには、役に立つモノと、意味のあるモノ・コトがあると考えています。現代の日本のように、役に立つ便利な製品・サービスがあふれる時代・社会においては、便利さとはことなる次元での意義が、機能的な価値とは別軸での情緒的・精神的な価値が、より重要になってくるのではないでしょうか。文明ではなく、文化的なものとして。
ヘラルボニーのアート作品を活用した製品・サービスを手にとり・身につけ・体験いただくことで、皆さんに新たな問いを投げかけるかもしれません。そしてそれは、もしかすると、現代における「ラグジュアリー」の意味を再定義するということにつながることかもしれません。
多様性とは? 自分らしさとは? 豊かさとは? 幸せとは?
働く・買うなどあらゆる人間の活動において「時短化」が進み、さまざまな情報が増え続け、「何にどう時間を使ったらよいのかわからない」状態になりつつある現代において、じっくり向き合うことができる人文知的な問いをもつということは、未来へ向けた、豊かな・ぜいたくな・幸せなことではないでしょうか。
異彩経済圏を、世界へ解き放つ
その結果として、ヘラルボニーでより具体的に成し遂げたいこと。非営利企業や純粋な文化活動としてではなく、ヘラルボニーの製品やサービスを通して、私たちは、営利企業として、しっかり経済へとつながる大きなインパクトを出していきたい。
ヘラルボニーのもつ哲学やストーリーをまとった製品・サービスを、世の中に、そして世界に広げていくこと。事業を拡大し、まずは「2030年までに世界50カ国の障害のある人々と異彩経済圏をつくり出し、年間10億円以上の異彩報酬を届けている」状態を目指したいと考えています。
すでにヘラルボニーのミッションは、フランス・パリの地から始まり、日本から世界へ解き放たれています。
「ヘラルボニーがあったからこそ人生が変わった」と思ってもらえる・感じてもらえる人を一人でも多く生み出し、それを日本だけでなくグローバルに増やす。そしてヘラルボニーが福祉を起点とした・地域発の・インパクトスタートアップのロールモデルとして、日本のみならず世界に名を轟かせている。そんな未来をぜひ皆さんとつくっていきたいと考えています。
これからお世話になる皆さんへ向けて
わたしは、娘を含めた私たちは、これまで、たくさんの人たちに支えられて生きてきました。この言葉の本当の重みを・深淵を、わたしはまだ、理解できていないと思っています。それでも、感謝の気持ちとともに、わたしができることをやっていきたい。
「異彩」に満ちた、希望ある未来の文化をつくり、世界に広げていく。
経済へとつながるインパクトを出し、社会の新たなモデルとなっていく。
ただし、当然ながら、そんな簡単に進んではいかないと思います。ミッションの実現に向けて、わたし自身のこれまでの経験をいかせる部分も一定はあるとは思いますが、きっとわからないことだらけです。というか、すでにもう、わからないことだらけです笑
ぜひとも、皆さんのご支援や応援や助言を、たくさんもらえれば心から幸いです。あらためて、今後、何卒よろしくお願いいたします。
希望ある未来への誓いをこめて。 2024年10月
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