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「正身・正身労働社会」から「半身・正身労働社会」へ 七緒栞菜

 「半身」という単語を久々に見た。最近話題の三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に書いてあった。「全身労働社会」から「半身労働社会」に変われば、誰もが本を読める社会になると三宅さんはいう。「全身全霊」を美徳として自ら疲弊するのではなく、「半身」の姿勢で仕事にも趣味にも家事にも取り組める社会を築いていくことの重要性を説いていた。「半身」の姿勢でいることは、自分自身の余白に仕事に必要なこと以外のノイズ(「影響」に誓いニュアンス)を受け入れる余裕があるため、自分の居場所を複数作ることができる。一方で「全身全霊」だと、仕事に必要な事柄以外のノイズを受け入れる余裕がないため、自分の居場所が職場ひとつになってしまったり、いつでも仕事のことしか考えられなくなってしまったりするのだという。

 「半身」と聞けば、空手家の私は「正身」を思い出さずにはいられない。

 空手には「半身」の体勢と「正身」の体勢がある。「半身」は受けの時の構え、「正身」は突きなどの攻撃時の姿勢だ。「半身」にはいい意味で「遊び」がある気がしていた。次の攻撃の準備の体勢にもなる「半身」には、絶妙な「抜け」のようなものを感じていた。

 突きの練習をするとき、大きく分けて2パターンの練習方法がある。片手ずつ交互に突く方法と、構えと突きを繰り返す方法だ。前者は「突き、突き、突き、突き」となりずっと「正身」の練習になるが、後者は「構え(受け)・突き、構え(受け)・突き」となり「半身」と「正身」を繰り返す練習になる。結論から言うと、半身から突いた方が威力が強い。私はそう思っている。「正身」から「正身」で突くよりも、「半身」から「正身」で突く方が、単純に引き手から突きまでの距離が長いからかもしれない。

 でも私には、この空手の経験には何か重要な示唆が含まれているように思える。私は、三宅さんのいう「全身労働社会」から「半身労働社会」への転換よりも、むしろ、「正身・正身労働社会」から「半身・正身労働社会」への転換の方がしっくりくる。(武道をされている方にしか伝わらないかもしれないが…。)

 ずっと「半身」はずっと受け身であることだと思う。「半身」と「正身」があって初めて「緩急・伸縮・強弱」のつく労働になる気がする。私独自の解釈ではあるが、「全身労働社会」が「急・伸・強」の働き方で、「半身労働社会」が「緩・縮・弱」の働き方なら、「半身・正身労働社会」こそが「緩急・伸縮・強弱」の働き方になれる気がするのだ。どちらか、ではなくて、どちらもあることが、重要なのではないだろうか。「全身労働」が必要な時期もあるということは、三宅さんも述べていた。

 今回の読書で、私にとって『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだことが、ちゃんと私の余白にいい意味でのノイズとして入ってきたことが嬉しかった。そして、そのノイズに思考を巡らせることができた。いい時間だった。

 働きながら、本が読みたい。「半身」と「正身」をうまくつかって、人生のノイズが私に入り込む余白を持っておきたい。



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