黒姫
物事を理解するとは如何なることか。それは、對象(ob-jectum)を表現すること(re-presentation)、即ち、對象の再構築(re-constraction)ではなかろうか。 かく考へた場合、哲學は云ふ迄もなくλόγοςに於ける(或いはλόγοςによる)世界の表現(re-presentation)であるが、斯くなる表現が十全に實現され得るか否かは、甚だ疑問と云はざるを得ない(畢竟づるに、精々詩的表現に帰結する)。 寧ろ、科學(science)に於けるが如
Πλωτινοςの體系(το ‘ενから‘υληへの存在階層及び各層の發出還歸の聯關)は三つの視座から重層的に描き出される。 第一にψυχήからτο ‘ενへの認識論的上昇過程として。其の内に更に二種あって、一に存在論的なそれとして、卽ちπάντα τα όντα τωι ‘ενι έστιν όντα(万有は一によって有である)と謂われる際、存在者の存在の根據として一が追及され、νουςより上位のものとしてτο ‘ενが定立されるに至る(VI9)。茲では存在論的根據の
始原への問は始原からの問である。かく始原を問うところのものは何であるか。其れは精神であり、自己である。自己は自由の内にあって、自らが其處に由來するところの始原を志向する。精神の自由からの出立は第一に、自らが其處から起源するところへと向けられてある。而してかくなる運動自体、始原から、始原に因って生起するものと考えられなければならないが故に、其の指向は返照的である、其の出立は還歸的である、卽ち、運動が自らの其處から生來するところへ運動しゆくが如き運動である。飜って考えるならば、
意識性の研究が我々のAufgabeである。我々は「意識がある」或いは「意識を有つ」と謂われる。然るにかゝる事實を認める時、我々は自らが意識を有つことを意識してある。我々は意識を意識する。かゝる状態を、我々は意識性と呼ぶ。 意識性は、我々が常に既に其處へ齎されてあるところのものである。我々は意識性へと呼び出され、其處へ齎されてある。意識性は、其の我々への現前に於いて、我々に齎されたものであって、我々が自ら起發したものではない。何となれば、意識性の現前以前に我々は存せず、其
自體者の自己同一は、自己表現的自己同一であり、かゝる自己展開は、我々に於ける主體の運動として實現する。 (一)主體は運動的である。其の運動は円環的である。主體とは、円環運動、自己回歸運動である。 (ニ)自己回歸運動とは、自己の「自己から自己へ」の運動である。即ち、それが其處から來たるところへ向かい、それが其處へ向かうところから來たるところのものの、其の運動を自己回歸運動と云う。 (三)自己回歸と云うからには、[一]自己から[ニ]自己への兩契機が存せねばならない。[一]自
沈黙の内で、之に就いて語ろう。 之は既に對象的にして、之として指示されるべきところのものではない。我々が之の立言に於いて知覺する唯一の事實は、その疎外であり、之として表現されたところのものが既に之ではないという事實である。從つて、之として指示されるべきところのものは、本質的に表現され得ない、即ち、λόγοςとして定着し得ない。茲に、之として指示されるべきところのもの、即ち意識の事實の非對象性が存する。 從つて、我々が之の非對象性を承知の上で、尚も、かゝる現事實性の記述を
我が心宙に漂ふは虚一文字 巡りめぐりて同處に歸す 文字を刻みて生命は去り 茲に殘るは死灰のみ されど胸中窃に冀ふ 爾が心に蘇らん事を 我の生きるは之事實也 我茲より出立す 懐疑と拒絶に苛まれ 死に逝く我を追ひ求めるも好し 無窮の空轉に呑み込まれ 爾は竟に沈黙す 此処に爾は我に逢ふ 我等が符牒は無言なり