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哲學的斷片(2)

 意識性の研究が我々のAufgabeである。我々は「意識がある」或いは「意識を有つ」と謂われる。然るにかゝる事實を認める時、我々は自らが意識を有つことを意識してある我々は意識を意識する。かゝる状態を、我々は意識性と呼ぶ。

 意識性は、我々が常に既に其處へ齎されてあるところのものである。我々は意識性へと呼び出され、其處へ齎されてある意識性は、其の我々への現前に於いて、我々に齎されたものであって、我々が自ら起發したものではない。何となれば、意識性の現前以前に我々は存せず、其の現前にあってはじめて我々は我々となるからである。我々は、意識性の現前に於いてはじめて我々である。

我々は、我々にとって處與的なものでなければならない。我々は自己自身へと喚起せられ、其處へ齎されてある。我々は、從って亦意識性の現前は、處與的なものとして、我々の現事實性である。

意識性の現前を、我々は現事實性と呼ぶ。現事實性とは漠然たる言であるが、其の指示するところの意識性が抑漠然たるものであるが故に、當差端緒的にかく名附けるばかりである。從って、我々の出立にあって、現事實性とは、未だ規定せられざる直接的なものであり、未分明の統一として我々に與えられたものである。從って、其れは解明を要する。我々は現事實性を可能ならしめる根據、亦其のものの構造解明するのでなければならない。

現事實性の解明は、我々にあって不可避の課題である。其の目的や効用は不問である。我々はかゝる要求に拘束される。我々が我々としてある限りに於いて、我々は現事實性問わざるを得ない。何となれば、かく問うより他あり得ないからである。

 我々にあって現事實性とは、其處へと我々が喚起せられ、齎されてあるという事態そのものであるが、是の喚起は同時に、現事實性への問を我々に喚起する。現事實性へと呼び出されてある限りの我々は、自らに現前してある意識性の事實、即ち現事實性可能ならしめている根據及び其の構造への問へと喚起せられてある。現事實性への喚起は、其の根據及び構造への喚起である。我々はかゝる喚起の内にあって、かく我々を呼び出すところのものへと呼び出されてある。喚起は喚起それ自身への喚起でなければならず、我々はかゝる喚起を受けて茲に立つ。

現事實性に於ける喚起とは何であるか。端的に云えば、γνωθι σεαυτόν という神託である。我々はかの神託に聴從するのでなければならない。γνωθι σεαυτόνという聲に拠って、我々は自己自身へと呼び戻される。かゝる喚起の内にはじめて現事實性は現前し、茲ではじめて我々が我々となって現出する。茲に我々は立脚し、茲から我々は出立する

我々はかゝる現事實への喚起へと拘束されてはじめてあり得る。この拘束から脱することは出来ない。逆説的ではあるが併し、かゝる拘束にあってのみ我々は自らの自由を感得する。何となれば、自由とは自らを問うことの内に存するのであるから。

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