始原と自由
始原への問は始原からの問である。かく始原を問うところのものは何であるか。其れは精神であり、自己である。自己は自由の内にあって、自らが其處に由來するところの始原を志向する。精神の自由からの出立は第一に、自らが其處から起源するところへと向けられてある。而してかくなる運動自体、始原から、始原に因って生起するものと考えられなければならないが故に、其の指向は返照的である、其の出立は還歸的である、卽ち、運動が自らの其處から生來するところへ運動しゆくが如き運動である。飜って考えるならば、かくなる精神の運動は、始原の精神を介した自己展開として、始原の側から觀ることが出來る。精神の始原に向けられた運動は、始原の自己展開の發現として、其れに據って始原の自己運動が収束するところのものとして知られる。倂し、かくなる精神の根源還歸運動は其自体、始原そのものの運動の内にあって、其れに全的に因っているものと考えられなければならないが故に、精神の志向運動が始原の自展的運動の圓環を閉じる、と觀られるにしても、それは後者が前者に依存、從屬して居るというのではなしに、寧ろ始原そのものの自發自展としてのみ考えられる。其の内にあって精神は自己の根源たる始原を志向する運動である。尠くとも、自由の内に精神が精神である限りに於いてかくの如く考えられる。
倂し、如上のことに依って我々は何ら始原そのものに就て知るところがない。抑も始原とは、全運動が其れに因って生起し、其れに起源するところのものとして、思惟の對象とせられることなしに、何處までも超越的と考えられるからである。寧ろ我々はかく云うべきである、卽ち、我々は始原に就て知るのではなしに、始原に由來し(其れ故)始原へと還歸せんとするところのものとしての我々自身を知る、と。我々は精神的であるが故に如上のことを知るのであり、亦同時に、如上のことを知るが故に精神的であると謂われる。茲に精神とは、自己自身を、自らが其處から出來するところのものから、謂わば根底的に把捉せんとする運動であり、かくなる内面への徹底に於いて、目的として志向せられるところの自己の底が亦、かくなる徹底(の運動)そのものの謂わば絶對主體として、根源的原因として自覺せられるのである。かくて自己の根底、卽ち、始原とは、其れが我々に依って始原として觀られる限り、我々の根源的原因たる究極目的である。精神が其處へと働くところは精神が其處から働くところ以外に有り得ない。從って、精神とは其處から其處へと渡された運動であり、茲に「其處」と云われるのが精神の根底であり、自己の根底であり、即ち始原である。かくなる始原から始原への展開は、精神に於いては出立に過ぎないが、始原そのものの自己展開が觀られる時、其れは完成を意味する。
自らの表現の端初を、自らが其處に由來するところのものへの運動に求める精神は、其の動機を處與の事實そのものから受ける、卽ち、「旣に生起せる始まり」(der geschehene Anfang)(ref.1)という事實である。我々が始原を問う時、假に自らを、始まりを齎すものとして觀ようものならば、其處で知覺せられる事實は寧ろ逆に、始原から脱落したものとしての自己、旣にして生起せる世界の内に置かれてあるものとしての自己、而して始原そのものへと向けられて始原から追放せられてあるものとしての自己、という否定し得ない事實のみである。我々は、自らに因って始まりを齎すことの出來ないものとして、旣にして生起せる世界に置かれてある。然も、自己自身を見るものとして自己自身に向けて、其處から自己の根據に還歸すべく、自由の内に置かれてある。我々は、自らが其處に由來するところの始原を志向し得るものとして、旣に常に始原から脱落してある。此の脱落に縁って始原そのものを觀ることが出來ず、唯、始原を自らの起源として觀る自己自身を見るより他ないものとして自らが現在すること、かくなる事實を我々は撤回不能のこととして容受する。
「始まりが始まるところで我々の思惟は中斷し、終焉する。而して、尚も始原を問わんとするところに、我々の思惟の甚深なる情熱があり、それこそ、結局我々の問を眞の問たらしめるものである。我々は絶えず始原について問わねばならないことを、然も、我々が始原に就て決して問い得ないことを知っている。」(ref.2)
精神は自由の内にあって、始原を始原から問題とせんと欲して、現前の始原以後の場から始原を觀るのでなしに、未だ其れが生起しなかった始原以前の場から、卽ち始原が未だ始原となって居なかった而して其處から始原が始原として生起したところの場に立って、始原をはじめから知らんとするが、かくなる激越は、倂し、始原から脱落してある自己、旣にして齎されてある始まりという現前の不可避の事實を前に鎮火する。
「始まりに於いて思惟は潰滅する。思惟は始原へ向上せんと欲して、尚も始原を欲し得ないが故に、全ての思惟は、自らが欲し且つ欲し得ないところの始原を前にして、自ら潰滅し、自らに挫折し、瓦解し、融解する。・・・人間はもはや始原の内に生きない、寧ろ始まりを喪失した。今や人間は自らを中間(Mitte)に見出す。終局も始原も知らないが、然れども、自らが中間にあり、其れ故に、自らは始原から生來し終局へと向上せねばならないことを知って居る。人間は自らの生がかの二つのものに由って規定せられてあるのを認める、倂し、かの二(始原と終局)に就て人間が知って居ることは唯、自らが其等に就て何も知らないということのみである。」(ref.3)
我々は自らが何處より出生し來ったか其の起源を知らない、亦自らが何處へと滅入するか其の終局を知らない。倂し、我々が自由な精神である限りに於いて、其處から出來したところへ還歸する如き存在として自己自身を知り、自らが其處に由來し其處へと歸入するところのものとして始原を知る。かくして始原は、不可知のものとして、其處から其處へと運動する精神から知られる。
「我々は、始原と終局との中間にあって始原に就て聞くことに據ってのみ、其の本來の意味に於ける始原に就て知ることが出來る。それ以外は、我々の始まりでもあるところの眞の始原ではない。此處、卽ち失われた始まりと失われた終わりとの中間に於いてのみ、我々は神に就て、それを始原として、創造者に就てのこととして知る。」(ref.4)
「我々にとって神とは始原以外の何ものでもない、始まりに於いて世界を創造し、我々を創造したところのもの以外の何ものでもない。此の神に就て我々は、我々の世界の創造者としてより他知ることが出来ない。」(ref.5)
かくなる神の創造した世界が、我々が、現在するということ、始まりが旣にして齎されてあるということが、我々の容受すべき第一の事柄であり、我々が其處から出立すべき第一の前提である。神以前へと飛び越えて、其處から神の創造を、始まりの生起を觀ることは不可能であり、それは唯虛偽に依ってのみ可能である。
「初めに創造する神の背後に遡及し得る問いは有り得ない。從って亦、創造の理由や、神に由る世界の計画、創造の必要性に就ての問も存しない。此等の問は、初めに神は天地を創造したという章句に據って最後的に解決せられ、神なき問いであるものとして暴露せられる。始まりに於いて神は世界の目的に就てあれこれの思慮を有って居たのではない。其の思慮に就て我々は更に進んで追い求めるべきでなく、寧ろ、初めに神は創造した、而して創造する神の背後には如何なる問も遡り得ない。何となれば、始まりの背後に遡ることは出來ないからである。」(ref.6)
かくて旣に齎されてある始まりの内に置かれ、其れを確認し、其處に自らの出發點を置くものは、自らの表現を自らの起源へと向ける。而してかくなる自由からの表現が、自由からの離反、背反とならないことを確信する。
「旣にして齎された始まりから出發する人・・・・彼らは暗澹たる夜の後に、太陽が昇り、而して自らの進むべき道を発見した旅人の如くである。今や彼らは新しい将來に向けて歩み出す。」(ref.7)
自由の内に沈黙せられるべき沈黙は、其れが聯續性の内で、原因と結果という平坦で表面的な因果聯關の内で視られる時、かく視るものと自らとの間に亀裂を生ぜしめる。其れは深刻な亀裂であり、決定的な斷絶である。其の間には如何なる媒介も存し得ない。自由は、其の内に置かれてある精神を、不可逆の、一向的な、全一的運動の内に拘束する。其れ故に、精神は沈黙を沈黙せざるを得ないのであって、自らが其處に由來するところの始原を問うというより他、在り得ないのである。精神のかくなる全一的性格は亦、始原のそれでもある。
「全き一回性こそが始まりを性格づける、茲で一回的というのは、數的意味でなくして寧ろ質的意味に於いてである。決して繰り返し得ないものとして、全く自由なものとして一回的なのである。自由な行爲の持續的な繰り返しなるものが考えられるか知れないが、それは凡そ根本的な誤りである、何となれば、自由は繰り返し得ないから。然もなければ、自由に制約せられた自由なるものが存することになる、畢竟、其れは不自由であり、もはや始まりではない。」(ref.8)
かくて、旣に一回的に生起したところの始まり、「旣にして齎された始まり」(der geschehene Anfang)の前に自由にある人間は、この自由こそ神と人とを結ぶ絆であることを確信する。
"Quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te."
(St.Augustinus)
[注記](1)Dietrich Bonhoeffer Werke Bd5.München 1987. S.499.(以下DBWと略記)。尚、Bonhoefferからの引用文の翻訳は、「詩篇一一九篇による黙想」(“Medition über Psalm 119l” ;DBW Bd5.)に於いては佐藤司郎訳、及び村椿嘉信訳を、「創造と堕罪」(“Schöpfung und Fall”;DBW Bd3.)に於いては生原優訳、及び村椿嘉信訳を參照した。以降、併せて原文を掲げる。
(2)DBW Bd3.,S.25. >dort wo der Anfang anfängt, hört unser Denken auf, ist es am Ende. Und doch ist es die innerste Leidenschaft unseres Denkens, es ist das, was jeder echten Frage letzten Endes Existenz verleiht, daß wir nach dem Anfang fragen wollen. Wir wissen, daß wir dauernd nach dem Anfang fragen müssen und daß wir doch nie nach ihm fragen können.<
(3)DBW Bd3.,S26-27. >Am Anfang zerreibt sich das Denken. Weil das Denken auf den Anfang hin will und ihn doch nie wollen kann, darum ist alles Denken ein sich selbst Zerreiben, ein an sich seibst Scheitern, Zerbrechen, Zergehen angesichts des Anfangs, den es will und nicht wollen kann....Der Mensch lebt nicht mehr im Anfang, sondern er hat den Anfang verloren - nun findet er sich vor in der Mitte, weder um das Ende noch um den Anfang wissend, und doch dies wissend, daß er in der Mitte ist, daß er also vom Anfang herkommt und aufs Ende hinmuß. Er sieht sein Leben bestimmt durch jenes beides, von dem er nur weiß, daß er es nicht kennt.<
(4)DBW Bd3.,S29. >Vom Anfang im eigentlichen Sinn können wir nur w i s s e n, indem wir in der Mitte zwischen Anfang und Ende vom Anfang hören; sonst wäre es nicht der Anfang schlechthin, der eben auch unser Anfang ist. Von Gott als dem Anfang wissen wir hier in der Mitte des verlorenen Anfangs und des verlorennen Endes allein - als von dem Schöpfer.<
(5)DBW Bd3.,S30. >da eben für uns Gott als der Anfang kein anderer ist, als der am Anfang die Welt schuf und uns schuf, und weil wir eben von diesem Gott garnicht anders wissen können als von dem Schöpfer unserer Welt.<
(6)DBW Bd3.,S30. >Es gibt keine mögliche Frage, die hinter diesen am Anfang schaffenden Gott zurückgehen könnte. Es gibt also auch nicht die Frage nach dem Warum der Schöpfung, nach dem Weltplan Gottes, nach der Notwendigkeit der Schöpfung - eben diese Fragen werden endgültig erledigt und als gottlose Fragen aufgedeckt durch den Satz: AmAnfang schuf Gott Himmel und Erde. Nicht: am Anfang hatte Gott diesen oder jenen Gedanken über das Ziel der Welt, Gedanken, die wir nun weiter aufzufinden hätten, sondern am Anfang schuf Gott, und hinter den schaffenden Gott kann keine Frage zurück, weil man hinter den Anfang nicht zurück, kann.<
(7)DBW Bd5.,S503. >die herkommen aus dem vollbrachten Anfang Gottes....Sie sind wie die Wanderer, denen nach finsterer Nacht die Sonne aufgegangen ist und die ihren Weg gefunden haben. Nun strecken sie sich aus nach einer neuen Zukunft, nun gehen sie von Sieg zu Sieg, nun sind sie auf dem Wege im Licht.<
(8)DBW Bd3.,S31. >Aber es ist das schlechthin Einmalige, das den Anfang qualifiziert; einmalig nun auch nicht im Sinn der Zahl, sondern im qualitativen Sinne, d.h. als das schlechthin Unwiederholbare, als das ganz Freie. Man könnte eine dauernde Wiederholung freier Akte denken, daran wäre nur grundsätzlich falsch, daß sich Freiheit nicht wiederholen läßt; sonst wäre es eben durch Freiheit bedingte Freiheit d.h. Aber Unfreiheit, nicht mehr Anfang<
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