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炸醤麺をつくる

プロには及ばないが、私の手打ちジャージャー麺(炸醤麺、炸酱面zhá jiàng miàn)も、これはこれでまずまずの味だと思うし、家族に好評である。

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筆者作の炸酱面

考えてみれば、炸酱面は、手作りを最も手軽に楽しめる中国料理の一つかもしれない。甜面醤などの必須材料は近所のスーパーでだいたい揃うし、高価な中華食材は必要ない。黄酱は一般的なスーパーにはないようだから、私は日本の味噌で代用するが(そうしているレシピ本もある)とくに問題はなさそうだ。味噌の先祖は大陸から来たというし、日本の味噌はそこから独自に発展したわけだけれども、もともと親戚だけのことはある。今回は、わが家の手作り味噌(麹比率高めの米味噌)を使ってみた。

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麺打ちは簡単。強力粉にぬるま湯を少しずつ加えながら捏ね、平たく延ばし、うどんのように切ってゆでるだけだ。

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ところで、冒頭に「プロには及ばない」と書いたけれども、炸酱面は最近まで、外食する食べ物ではなかったようだ。

文筆家で生粋の北京人という崔岱遠さんのグルメエッセー(?)集『吃货辞典』(2014年)にこう書かれている。

「北京街头出现专门的炸酱面馆子也就是近几年的事。在早先,炸酱面都是百姓居家过日子的家常饭,进不了馆子,也不算是街边随便点补的小吃」
北京のまちに炸酱面の専門店が現れたのは近年のことだ。炸酱面は、以前は庶民が家で食べる日々の家庭料理であり、料理屋には入らなかったし、まちで気楽に食べて小腹を満たす軽食でもなかった、というような意味になるだろうか。

また、料理研究家のウー・ウェンさんは、『東京の台所 北京の台所』(2004年)の中で「北京ではいま、このジャージャー麺で有名なチェーン店が流行っています。店の名前は老北京炸酱麺店」と書いている。

我々には、とりあえずありがたい。そのおかげで、誰もが気軽に当地の食文化の一端に触れられるのだ。

そういえば、盛岡の「じゃじゃ麺」は、炸酱面がルーツだそうだ。終戦後だった前だったか、満洲から故郷の岩手に引き揚げてきた人が、かの地で食べた炸酱面に着想を得て「じゃじゃ麺」を生み出したのだとか。

その人物が創業したのが、盛岡の「白龍ぱいろん」で、何年か前、出張で盛岡へ行ったとき自分も「元祖」盛岡じゃじゃ麺を食べたことがある。なかなか個性的な郷土料理だが、個人的には、肉味噌よりも、うどんに似たあの白く太い麺に炸酱面の面影を見る。

盛岡の「白龍」の「じゃじゃ麺」(2018年4月7日)

では中国での起源はというと、崔岱遠さんは「北京人擅长吃酱很大程度上是受了旗人影响」と書いている。旗人は満洲族(古くは女真族といわれた)のこと。北京の人たちが酱をじょうずに食べるのは、旗人の影響が大きいという。

しかしそもそも「酱」とは何か。辞書によると、それは味噌や醤油など豆や小麦を使った発酵食品だけでなく、味噌や醤油に漬けた食品や味噌や醤油で煮たり炒めたりした料理、また、どろどろした状態の調味料をも指すらしい。だから、肉や魚を使う肉酱や鱼酱、小麦から作る甜面酱、大豆から作る黄酱だけでなく、ジャムを果酱、イチゴジャムを草莓酱と書くし、マヨネーズは蛋黄酱、トマトケチャップやトマトピューレは番茄酱、ピーナッツバターを花生酱という。

ジャムやマヨネーズの話ではないと思うけれども、酱が広く親しまれ食卓に欠かせなくなるそもそもの端緒を探ると、清の太祖、女真族のヌルハチ(1559~1626)に行きつくようだ。

彼は「以酱代菜」、つまり酱をもって料理に代えること(副食物にするということだろうか)に取り組んだという。それにより軍隊の食事を改善し(塩分や栄養面での課題解決か)、将兵の力、軍の力を強化したとのこと。

その後、清が瀋陽から北京に遷都(万里の長城東端にある要塞・山海関を越えて入ったことから「入関」といわれる)すると、酱の文化は宮廷にも根づき、「宫廷四大酱」などと呼ばれる料理が生まれる。

つまり、東北から侵入して征服王朝を建てた異民族の戦略・戦術上の知恵が食文化として定着し、後世、宮廷の四季折々に欠かせない料理になった。

清朝宫廷四大酱とは、春は「炒黄瓜酱」、夏は「炒豌豆酱」、立秋を過ぎたら「炒胡萝卜酱」、冬が来たら「炒榛子酱」だそうだが、それぞれどう訳すものなのだろう。食べたことがないので写真や動画を見たのだが、それぞれキュウリの酱炒め、エンドウマメの酱炒め、ニンジンの酱炒め、ハシバミ(ヘーゼルナッツ?)の酱炒めといった印象だ。

この習慣は、宮廷から庶民の食卓へと広まった。各戸の食卓に酱の文化が花開くこととなり、そしていつしか、それが懐かしの父の味、母の味、また、ふるさとの味となっていく。

また、近代には日本が中国を侵略。満洲に渡って炸酱面の文化に触れた人が、引き揚げ後、盛岡じゃじゃ麺を生み出し、当地の郷土料理として認知されていくことになる。

そして今、自分なんかが東京の西の片隅で炸酱面の手作りを楽しんでいるわけだが、幼い娘にとって、その炸酱面はときどき出てくる我が家の味、父ちゃんの味となっている。万事万物に歴史ありである。

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