私は本当に茶が飲みたかったのか
先日中国からの来客があった。
その際に、手土産としてお茶の葉を頂いた。
「白茶」と書かれたオシャレな缶に入ったもので、
ティーパックではなく
急須などで淹れるような茶葉である。
なので職場で配れるようなものでもないし、
そもそも海外からのお土産は
職場ではたいてい敬遠されてしまう。
なので、私はこのお土産を
自分用に使うことにした。
家に持ち帰ることも一瞬考えたのだが、
どう考えても妻が嫌がるのが目に見えている。
ならば、デスクで自分で飲めばいい。
そう思ったわけである。
とはいえ、私は日ごろ仕事中に
お茶を飲む習慣はない。
家で淹れたコーヒーを水筒に入れて
職場で飲んでいるからである。
急須もないのでどうしたものかと
思いながら家の水筒置き場を見ると、
かなり以前に中国の展示会でもらった
お茶用の水筒があることに気が付いた。
これは水筒の中にお茶の葉を入れて湯を注ぎ、
飲み口に茶こしのようなものが付いている仕様で
もらった当初は正直要らないと思ったのだが、
水筒を集めるのが好きな妻の目に留まり
今まで置かれていたのだ。
早速その水筒を会社に持って行き
もらった茶葉を入れて飲んでみた。
わざわざお土産で持ってこられるぐらいなので
きっといいものなのであろう。
ウーロン茶のような渋みもなく、
スッキリとした味なのにしっかりと余韻がある
とても美味しいお茶である。
これでしばらくはコーヒーを持って行かず
代わりにお茶を楽しむことができる。
そう思いながらお茶を飲んでいると
コーヒーよりも飲むペースが早かったらしく、
昼休みにお茶の葉を入れ直して
水筒2杯分のお茶を飲んでしまった。
だが、お茶を多めに飲んだところで
大した問題ではない。
そう思い、お茶を飲みながら
昨日の仕事を終えた。
帰宅しようと最寄りのバス停からバスに乗り込み、
いつもの席で眠りにつこうとしたとき、
私はいつもと何かが違うことに気が付いた。
いつもなら仕事を終えて座席に着くと
ものの1分ほどで眠りに落ちてしまう。
それほど体が睡眠を欲している状態に
なっているわけであるが、
昨日はなぜかいつもと同じ行動をしているのに
なかなか眠りに落ちなかったのである。
いつも帰宅時のバス時間を睡眠に充てるのは
単純に睡眠時間の補充という意味と
帰宅後の活動に向けた回復的な目的があるので
本当は寝ておきたい。
しかし、眠くならないのであれば
無理に眠る道理はないので
私は本を読むことにした。
だが、昨日も仕事を全力でしたはずなのに
なぜ眠れないのか。
その理由を考えた時、いつもと違う要素の一つに
例のお茶があることに気が付いた。
いつもなら持参したコーヒーを飲み終わると
それ以降はカフェインを含んだ飲み物を
口にすることはない。
だが、昨日は美味しさと飲みやすさ故に
お茶を水筒2回分飲んでいた。
もしかすると、それによりカフェイン摂取が多くなり
眠れなくなったのではないだろうか。
よくカフェインと言えばコーヒーが
連想されがちであるが、
実は茶葉の方が含有量が多いという話も
以前に聞いたことがある。
やはり、私はカフェイン摂取量が
多くなったと考えるのが妥当であろう。
そう考えたときに、ふと一つの疑問が
私の頭の中に浮かんできた。
カフェインに興奮作用があるのは
言うまでもないことであるが、
私達はカフェインを摂るために
無意識のうちに茶やコーヒーを
常飲させられているのではないかということである。
「いやいや。これらは美味しいから飲むのであって
別に飲まされているわけでないよ」
そう思われる方もいるかもしれない。
だが、それは本当であろうか。
冷静に考えてみればコーヒーもお茶も
苦みや渋みを含む味であるし、
麦茶のようにゴクゴク飲めるものではない。
もちろん茶やコーヒーが発する香りは
とても香ばしく、私も美味しさを感じるが
香りという観点で見れば麦茶もコーン茶も
十分にいい香りがする。
にもかかわらず、私達は麦茶やコーン茶ではなく
茶やコーヒーを選んでいる。
果たしてこれは本当に味や香りが
好きだからというだけなのか。
正直、私は日ごろコーヒー以外には
麦茶か水しか飲まないので
今回葉から淹れる茶を久々に飲んだ。
そして、美味しいと感じたわけであるが、
1回目に水筒に入れた分が無くなったとき、
それ以降は水でもよかったはずであるが、
なぜか私は2杯目も淹れようと思った。
のどの渇きをいやすだけなら
水で十分であるし、冷水器もあるので
水ならば冷たい状態で飲むこともできる。
にもかかわらず私が茶を選んだのは
果たして茶が美味しいからだけかというと
答えはNoな気がするのだ。
では私にそれを決断させたかというと、
それはカフェインではないだろうか。
カフェインは植物がもつアルカロイドの一種。
その身体的依存性は低-中だとWikipediaには
記載があるように、
少なからずカフェインは依存性を示すものである。
もしこの作用により私達が知らず知らずのうちに
茶やコーヒーを選んで飲んでいるとすれば、
これはとても怖いことではないだろうか。
例えばあなたが偶然街中で
紙に怪しげな乾燥した葉を巻いて
火をつけて吸っている人がいたとすれば
あなたはどう感じるだろうか。
間違いなく危ない行為だと認識して
その人から距離を置くであろう。
では、この人が紙に巻いていたものが
低~中度の身体的依存性を示す
合法な葉っぱだとすればどうだろうか。
だとしてもその印象は変わらないだろう。
実はこれは茶やコーヒーを飲むことと
何ら変わらないことではないだろうか。
火をつけて煙を吸うか
湯で煮出してその煮汁を飲むかのだけ違いだけである。
そう思うとなんとなく日ごろコーヒーを
常飲していることが怖いことの様に思えてきた。
言うまでもないが、私は茶やコーヒーを飲むことを
否定しているわけではない。
これらの飲み物は嗜好品として私たちの生活を
豊かなものにしてくれているし、
私自身も間違いなく好きな飲み物である。
だが、そこにある「好き」の感覚が
何かしらの成分に影響を受けていないかどうかを
考えてみることは重要ではないかと思うのだ。
その上で本当に自分が飲みたいと思うのかどうかを
判断する必要がある飲み物であることに
今回の茶の一件で気づかされた気がする。
実際、私は以前アルコールを常飲していたが、
それをやめてみて今思うのは
私は決してお酒自体が好きだったわけではなかったと
いうことである。
このように茶やコーヒーも適度な距離感を保ちながら
生活に取り入れていきたいと思う。