見出し画像

日本人と心を動かすもの。

このごろのブログでは、昨年12月刊行されました
後藤正文さん×藤原辰史さん共著
『青い星、此処ここで僕らは何をしようか』
読み思ったことをしるしているですが。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤さん、及び、
歴史学者の藤原さんのおっしゃる
「音楽」についてのことを読みながら、なんだか、
音楽とは、どういうことか?
というのが、また、よくわからなくなってきた。

たとえば、SNS等で、アジカンの
後藤さんに対してよく言われていることが、
政治的及び社会的発言をするミュージシャン、
というものだと存じていて、そのことについて
批判であったり、また、かつて
アジカンをよく聴いていたが、
そのような発言をするのだから、彼らの音楽を
聴かなくなってしまった、ということばも
インターネットで見たことあるのですが。
ぼくとしては、ミュージシャンが
政治、もしくは、社会に関する発言をすることは
なんにもわるいことでないとも思うし、ぼく自身、
後藤さんのことばから、知ったり、学んだり、
勉強になったりすることも多いと思うから。

このことについて、書籍では、お二人による
往復書簡での後藤さんのことばの中で、、

 よく話題になる「ミュージシャンは音楽だけやっていろ」という言葉がありますよね。ミュージシャンだって一人の市民なわけですから、社会や政治に参加する責任はあります。それぞれの参加態度についての批評ではなく、参加そのものを妨げるような言説は間違っていると僕は思います。一方で、ここまでに書いてきたように、僕たちの現場は、人々の考えや行動をコントロールしてしまうような力が発揮される危険性も含んでいます。ですから、フェスやコンサートのステージのような場所で、ものすごく短いスローガンのような言葉が、よくない向きで使われる可能性についての危機感や嫌悪感が「ミュージシャンは音楽だけやっていろ」にはいくらか含まれているかもしれないと思います。そうした感覚は間違いではない。ミュージシャンも観客も、ある種の熱狂にも間違いがある可能性と、その危険性について、常に準備と自己点検が必要だと考えます。

後藤正文さん×藤原辰史さん共著『青い星、此処ここで僕らは何をしようか』154-155頁

「ミュージシャンは音楽だけやっていろ」
ということばについて、後藤さんは、ミュージシャンも
一人の市民なのだから、社会及び政治に
参加する責任があり、このとき、
参加そのものを妨げるような言説は間違っている、
と思う、とおっしゃる。しかし、その一方、
独裁者が音響技術や音楽によって、
人を統制しようとするかのごとく、
人々の考えや行動をコントロールしてしまう力を持つ、
という危険性も含んでいる。
このことについて、後藤さんは
ミュージシャンも、オーディエンスも、
ある種の熱狂にも間違いがある可能性、
及び、その危険性について、つねに
準備と自己点検が必要だと考える。とのことでして。

音楽についてのこのことを読みながら、
ぼくがなんだか思い出していたのはね、
以前、ほぼ日刊イトイ新聞連載の
吉本隆明さんと糸井重里さんの対談の中で、
吉本さんがお話されていた
「赤とんぼ」の歌のことです。

以下、引用を申しあげます。

糸井
吉本さんが学生時代に持っていたのは、
とても純粋な気持ちですよね。

吉本

ええ、純粋だけは、まちがいなく純粋でした。
戦争が終わったときだって、
「なんだ、勝手に降参して。
 俺が降参したわけじゃねぇぞ」
と、思っていました。
もしも「もう一回やるぞ」という
反乱軍ができたら、
そこへ行って俺は死ぬと思っていました。
生きてたってしょうがない、
そのくらい大真面目でした。

糸井
はい。

吉本

だけど、だんだん事実が経過していくうちに、
平静さが出てきました。
平静さというか、生きるずるさというのか、
そういうことを覚えていきました。
だいだい反乱する軍隊なんてもの、
ほんとうはいないわけですよ。
鉄砲ひとつ撃たないうちに
大臣みたいな人が2人か3人死んで、
戒厳司令官というのが、
ものすごく滑稽なことを言うんです。
「おまえたちは陛下の軍隊に背いて、
 反乱しようとしてる。
 父母が聞いたら泣くぞ」

糸井
ああ。

吉本
それがいかにも日本的でね。

糸井
そういう言い方は、のちに
全共闘のときにもありました。

吉本
ええ、おんなじですね。
日本人というのは、そういうときに、
「父母はおまえたちの振る舞いを泣いとるぞ」
みたいな布告をやるわけですよ。
へぇえ、これが日本人なんだなぁって、
ぼくは思いました。

糸井
そうかぁ。

(……中略……)

吉本

これまで、何かあるごとに、
日本式の情感の現れ方を
つぶさに感じました。
60年安保で、品川駅で
線路の上で座り込みしてたときもそうです。
学生さんたちと一緒にやるなら、
俺もどこまでもやって、
それでいいや、と思ってました。
そこでいちばん心に残ってて、
いまでもものを反省する
材料にしている出来事があります。
どこからどう、誰が歌いだしたのか、
ぜんぜんわかんないんですけど、
座り込みの連中が、
「夕焼け小焼けの、赤とんぼ」
って、歌を唄い出したんです。
そしたら、それが合唱になっちゃった。
歌は歌でも「インターナショナル」なんて、
出てこないですから。
赤とんぼ、あの歌が、
大合唱になっちゃったんですよ。
自分も「おや?」と思いながら、
歌ってました。

糸井
ああ、そうなんですね。

吉本
きっと指導者ってものは、こういうときに
「インターナショナル」とか、
そういうものを唄ってもらいたいでしょう。
そういうもんかな、と思ったら、
そうじゃない。
そういうときは「赤とんぼ」なんですよ。
やっぱり、おんなじじゃないでしょうか。
お前たち、お父さんお母さんは、泣いとるぞ、
ということとおんなじです。
その「赤とんぼ」を唄っているとき、
ああ、やっぱり俺も、
こういう人なんだ、
これ以上のものではないんだ、
ということを、ほんとうに自覚しました。
それは、いまでも、何と言われても、
弁解なしです。

糸井
「何を言うか」じゃなくて、
心を動かすものがある。

吉本
そうなんですよ。

糸井
父母の話と同じく、
結局は感情がうねって動かすものに
持っていかれるんです。
そしたら、理屈ってなんだろう(笑)。

ほぼ日刊イトイ新聞、吉本隆明さん×糸井重里さん対談
『吉本隆明「ほんとうの考え」』第11回(2010-02-01)より。

60年安保で、品川駅で線路の上で
座り込みしていたとき、どこからか、だれかが
「夕焼け小焼けの、赤とんぼ」を唄い出して、
その歌が大合唱になった。吉本さんご自身も
「おや?」とも思いながらも、
一緒になって唄われた。
吉本さんは、このことが
いちばん心に残っていて、かつ、
ものを反省する材料にもされていた。
このお話を聞いた糸井さんは、
何を言うか、じゃなくて、
心を動かすものがある、そして、結局は
感情がうねって動かすものに持っていかれる。
とのことでして。

吉本さんのおっしゃっていたこのことばもまた、
なんだか、アジカンの後藤さんが言われている
統制の危険性、間違いの可能性、及び、
準備と自己点検、というものと結びついている、
とも感じられました。

音楽とは、そのような
ある意味では怖いものだとしても、
つまり、心を、よくもわるくも
動かすものだとしても、
ぼくは、音楽を聴けたい!
ならば、つねに、
準備と自己点検と反省を想いながら。。。

青い星、此処で、ぼくはなにをしようか?!

令和7年2月25日