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本気で読書感想文(京極夏彦さん『巷説百物語』1)
本当に何かの価値を主張したいと思った時、その「素晴らしい何か」にふさわしい事柄を用意する必要がある。絶対ではなく相対。その人個人に終始する趣味趣向、一方向から語るのではなく、間に共通項を置き、他方からのアプローチを試みる。その整合成を信じられれば、あるいは動く人が現れるかもしれない。
今回話をするのは京極夏彦さん『巷説百物語』まず本作を語る前に文庫本巻末に掲載されている解説(記、大塚英志さん)の話から始めようと思う。
〈怪談とはしばしば現実の更新期に好まれる表現である〉
例として、明治30年代半ば〜40年代初め、原文一致体に伴う自然主義文学が啓蒙されていった時代は、この怪談のはやりと文学史上重なり合うという。自然主義。ここでは柳田國男の『遠野物語』との関係を記す上で、田山花袋の『蒲団』を引き合いに出している。それは人間臭さ、ありのままの感情を記したもの。耽美の「こうあるべき」の対。
『蒲団』は「私」という日記感が色濃い。だから見ちゃいけないものを覗いているような、「でもあるよねーそういう感覚」というもの。
それはそう捉えられればいいが、少し見方を変えるとただ俗悪なものに映ることもある。『遠野物語』は遠野地方に伝わる伝承を聞いたままに綴った説話集であるものの、理想ではなくありのまま、現実。柳田は同じ自然主義として彼の作と一緒にされることを拒んだ。
地方伝承。現実にあるものないもの。
それは理想と現実という耽美主義、自然主義とは別に、「あるけれどないもの」という新しいカテゴリを生み出す。怪談、幽霊の類。それらは必ずしも物好きが肩を寄せ合って語るものではない。「それ」は確かに己の足元に続いている。
余談だが、表題作家は『魍魎の匣』にて〈犯罪者と一般を分かつものはそれが可能な状況や環境が訪れるか否かの一点にかかっている〉としている。いわゆる「魔が差す」。人はその動機を詮索するが、それはあくまで「こちら側」が殺人者とは別の生き物であると安心するための材料を手に入れたいがための行動。
今回取り上げる作中にも〈神でも仏でも、庭の大木でも何でもいいのさ。本気で畏れ崇めてれば、謙虚な気持ちになるじゃろ〉という表現が出てくるが、全く別の話をしていても根っこは繋がっている。恐れ多くもその作品傾向を考えたところ、この作者がずっと重きを置いているのはそうした「見えないものへの畏怖」「無自覚の差別」常に謙虚であれ、という何処か修行を彷彿とさせるものであり、その著書はだから「教え」に他ならない。
物語という自分から切り離したところに視点を置き、間に挟むようにして共有する。それは他ならぬ「国語」。
大人になってからの学びは娯楽だが、それでも学びと称するのは堅苦しい。物語の世界に没入することで「人のふり見て我がふり直せ」間接的に襟を正すことは、ただ己にとってのプラス、利益となる。有益な楽しみ、読書は非常にコスパがいい。
さて、随分遠回りしてしまったが、ここで私が試みるのは「読む量が多い」「そもそも怪談、幽霊の類に興味がない」という方の懐柔、ハードルを下げた上での手招きである。本作は「58、64、60、80、76、82、60ページの短編集」であり、「幽霊を題材に練り込んでいるだけで、土地柄、時代背景含めて、極めて写実的に描かれた人情作品」だ。故に数字、データ、事実しか信じないタイプの人にこそ勧める。このことを解説では〈「現実をいかに描くか」という近代小説、リアリズムの命題に柳田と同様、京極夏彦氏は「怪談」という形式を持って忠実に応えようとしている〉と書き記している。
まだまだ続くコロナ禍、簡易のトリップはいかがでしょう。『蒲団』の如き「私」視点で、けれども人一人これだけ動かしたという一証拠として、この度この作品の魅力を伝えるお手伝いをしようと思います。
あ、ここまで前置きです。これから本編入ります。