本気で読書感想文(谷崎潤一郎『春琴抄』①)
〈失礼だな、純愛だよ〉
美しい日本語に声に出して読みたい日本語。今回私をもってノミネートしたのは、そんな某人気漫画を映画化したものから抜粋したものだ。
文脈なくても読める。前にはおそらく「失礼」に当たるやりとりが行われていて、それは「純愛」と対になるような性質を持つもの。「純粋じゃない愛」すなわち「雑念まみれの愛」「複数に向けた愛」ここから「浮気」「遊び」「不倫」と連想される。声質、外見からして「不倫」を除外。「浮気して遊べる。落とそうとして落とすことができる性質」よって導かれる解は「たらし」である。それに対しての答え。
「違うよ。このやりとりはこの子にしかしない」(「できない」ではない)
それを洗練したものが冒頭の一文である。
とても良い。静かな怒りと、憤りと、迷いのない想い。
本人怒っているのか喜んでいるのか分からない。けれども地に足はついている。激しい温度差、そこに発生するエネルギー、美しいコントラスト。見事なアンビバレンス。何度でも繰り返したくなる。さて、
今回取り上げるのは谷崎潤一郎『春琴抄』とにかく良い。構成、セリフ回し、描写。そのどれもが私の美意識と合致した。元々この時代の作品を読み漁っている人と勘違いされないよう断っておくが(後に本文にも当たっているものの)入口はオーディオブックだ。音読に依る功績も大きく、特に春琴のセリフは本当に春琴だった(語彙力)あまりの感動に5回程回して聞いたが、2度目から冒頭が沁みる。冒頭こそ沁みる。まるで延々ループするかのように、幸せが循環する。 少し長く、深くなるが、時間の許す限りお付き合いいただきたい。今から試みるのは感想文というよりは私なりの解釈、辞書作りだ。
この作品は2022年3月末日現在、ウィキペディアにおいて「マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描いた作品」と表現されている。彼の作品を評論している澁澤龍彦氏自身、東京大学文学部仏文科の卒業論文でサドをテーマにした論文を提出しているのだけれど、当時サドは文学者としての評価云々以前に俗悪的なポルノ作家との認識が基本だった。マゾだろうがサドだろうが、どちらをとってもその人の好む愛情表現に違いないが、なるほど、何となくしっくりこなかったのは、当時ではないにせよ「俗悪的なポルノ」という感覚がまず印象的だったからだ。単語から連想されるもの。一般、興味のない脳みそは「マゾヒズム」で解釈を止めてしまう。そうして何となくのイメージを抱く。当然その大別に当たって、この単語が作品の中心に来ることはないが、結局印象なのだ。その帯として残したい文言。私にとっての春琴抄を紹介しよう。
「『親しき仲にも礼義あり』を研磨し続けたら、一生過ぎても一緒にいられるようになった。一生過ぎても一緒にいたいと思えるようになった件について」
これは「願うけれど滅多に手に入ることのない代物を手に入れた成功者の話」であり、その奇跡である。大切な人と一緒にいることはできても、ずっと同じ温度ではいられない。それを可能にしたのがある種奇妙な関係。ここまできてようやくエスだのエムだの議論になる。ちなみに私の目からはただ役割に応じた当たり前のことをしているだけで、どこにもそんな要素は見受けられなかった。ある程度筋道は追うが、正しい理解のため、ぜひとも本作に関わって欲しい。オーディオブックのアプリ「キクブン」で無料で落とせる。
以降ネタバレを含む。ご了承いただきたい。
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