独り言多めの映画感想文(fさん『真夜中乙女戦争』)
無愛想で部屋の片隅にいる子に惹かれるのは、自分にその素質がないため。ないものを補おうと、その子の持つ思考回路から不足しているものを炙り出そうとする。過去に読書感想文にもしたためたこの作品は、相も変わらず私の本棚にひっそりと佇み、謎の力をもってたびたび私の手を引く。
友達が欲しいと思った。お酒を飲めない私でもつまみ片手に輪になってワイワイできる友達が。でも考えた所で、先んじて私には協調性というものが欠落していた。事実、職場の管理担当から「君だけ違うんだよね。他はみんな協調、共感型なんだけど、君だけ結果重視の合理主義型。言ってることは正しいんだけどね」と言われたことがある。
原作を読み返していて思い出したんだけど、岡田斗司夫さんが「今はホワイトが求められるから、過去に少しでも過激なツイートしてたら即刻消した方がいい」って言ってた。コロナ関係なくても消毒、滅菌な世の中は、いつしかこの作品最大の魅力である過激発言をことごとく浄化し、口当たりの良いものに濾過しなければ、公にできなくなってしまったようだ。ホント、すごいよ本家。読んでる側が尻込みするんだから。読者ターゲットにしてる怖いもの知らずな大学生にはちょうどいい辛さだと思うんだけど、牙も毒も抜かれちゃうんだよね。ピーマンにはピーマンの、トマトにはトマト本来の味があったはずなのに。基準はいつだって多数決。そのことが何より悲しい。これは個人の感想。何より、悲しい。
友達が欲しいと思った話に戻るんだけど、考えてみれば友達って似たような状況にいる相手、共感の深い刹那的な関係がほとんどで、無理やりつくった所で、興味のない話にニコニコ相槌打ったり、絶対興味ないだろうなって思いながら自分の話をしたりするのは、逆に消耗するだけな気がする。互いにメリットのない時間ならハナっから設けない方が、ある種の気遣い、やさしさとも言えそうだ。結果変わらず同じようなことをぼやくだけなのだから、目的は遠のくばかり。
前に少し書いたが(小説あとがきより)この作品自体、大学一年生に向けて作られた作品らしい。映画監督は世に出て数年が経過したこの作品を現代に合わせるため、新たなSNSを取り入れて映像化を試みた。実際観た感じ、そもそも始めから完全にターゲットを原作ファンに限定していて「壮大なスケールのハモリ」という感じを受けた。「この作品から私はこんなインスピレーションを受けましたああああ」みたいな。だから本体の色味とは似て非なる。私は私で「この作品から私はこんなインスピレーションを受けましたああああ」を持つ分、ある種のノイズが入る感覚は否めなかった。もちろん映像化することで得られる感覚的な心地よさ(私にとっての夜景と池田エライザとラストシーン)ありき。学生特有の根拠のない万能感。自立と自律と享楽と堕落。鮮やかな色味。揺蕩う金魚。同じ色に染まれるか。あるいは己が真っ黒な出目金でしかないと気づいて距離を置くか。得体の知れない焦りと破壊願望。一方で何にでもなれると思えてしまう程には持て余していたエネルギー。
学生の時タバコを吸ってみれば良かったと、今でもたまに思う。親に怒られるからとか健康に悪いからとかいろんな正しさを蹴り飛ばして、「将来子供ができた時どうするの。今の内からやめといた方がいいよ」と喫煙者の友人に言っていた私ごと蹴り飛ばして、一度だけ振り切ってみたかった。あっち側の世界に行きたかった。そうしたら、正しさを押し付けることでしか自分を成り立たせられなかったクソみたいな自分でも、その子の抱えていたものが少しは見えたのかもしれない。
笑わない子だった。まっすぐ見つめる、その目が怖かった。ハリボテの自分を見透かされそうで。いじる携帯。連絡して欲しい相手から来ない連絡を待ち続ける。その明るい室内で見る、真っ黒な瞳に惹かれた。腕組みはバリア。パーソナルスペース。柔らかな関西弁の奥に秘めた過去。全部全部。脳みそにべったり張り付いたまま癒えない。声がさ、もう思い出せない気がするんだよ。たまに「ほな」って次の授業に向かう背中を夢に見たりするその声が、いつしか聞こえなくなってて。
たぶんだけど、あの子は「あなた明日死にますよ」とか言われても「へえ」って言ってタバコ吸ってて、組んだままの腕も足も崩さなくて、低温のまま携帯を見つめてる。そんで「彼女さんと仲直りしたんかなぁ」とか呟いてる。最後ぐらい自分のことを一番にしてくれる人を思いなよ、とか、くだらないこともう思わない。思わないから返して欲しい。あの子は強がりが異常に上手いから。いい子いい子に忠犬ハチ公みたいに待ってるけど、本当は寂しくて仕方ないんだから。天国でうまくやれるか分からない。だったらせめて「1」確定してるここら辺に返してください。目印に東京事変の旗、置いておきます。
それにしても「好きです」の告白から「セックスがしたいの?」って返しには痺れた。ここからどう返答するかでセンスが出る。その昔、上手く歌を詠めなかった殿方は会ってさえもらえなかったという。使える時があれば使ってみたいと思う。来世に期待。
思えば大学生の時なんて恋しかしていなかった。というのはいささか言い過ぎだが、じゃあ何が残っていると言われても、結局「オールの飲み会の後、朝日の差す中カチ割れそうな頭抱えて駅から30分かけて歩く途中、その時付き合ってた相手が自分だって死にかけのクセにおぶってくれたこと」と「カシスオレンジ2杯飲んだらまともな思考力はフライアウェイ」ということぐらいしかない。ウソでしょ。この脳みそ思った以上にヤバかった。あ、言葉の授業と短編小説つくる授業は覚えてる。背景の描写ガンバレって言われたあの時から何も変わってないけど。イコール何も残っていないと同義。今使っているペンネームは大学生の時から使用しているもので、だから関わりのあった人であれば今でも私の顔と本名を一致させることができる。卒業後、数年程SNSを離れていたから、きっともう一人残らず忘れてると信じて書き残す。黒歴史なんて現在進行形で続いているのだから、私の歴史書は半分を経過した今も真っ黒のままだ。中途半端な白髪が一番嫌じゃない。だったら潔く黒のまま終わりたい。さて。
そうそう、真夜中乙女戦争の映画を観たんだった。この作品は真夜中に私を乙女にするだけの力を秘めているよ。最後のやり取りだけで、飲めない私を飲みたい気分にさせるだけの力を秘めているよ。久しぶりに原作読み返して、私は私でハモりたくなったんだ。結局は自分語り。あるいは無駄な時間を過ごしたと思った人もいるかもしれない。ごめんなさい。それでも
「生きているなら、今は、それでよしとしてあげるよ」
おやすみなさい。良い夢を。
このタイトルどこか見覚えがある、という方はきっと過去のどこかでこれを読んでいると思われます↓↓↓
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