本気で読書感想文(京極夏彦さん『巷説百物語』4)
死ぬ側と死なれる側の論理。及びその間に大きく横たわる「死にたい」と願う者の論理について。
導入。前に「殺人者の論理」を挟む。
どんな形であれ、「その時」「その瞬間」良しとして動いた結果、己の首を絞める形になるのは、刹那的に発生した衝動をあらためて振り返った時、その力が過ぎたものだったと気づくため。相応なら納得も出来よう。しかし死が関わるほどの力は、崖から飛び降りるが如き大きな能動無くしては起こり得ない。往々としてそこにはどこからか発生した「追い風」が関わっているものなのだが、風に罪は問えない。あまねくそれらは衝動、本人の悪意「魔が刺した」一部とされる。
作中、殺人を犯した人物は、ある者は生かされ、ある者は殺される。
〈どうやら生きるも死ぬも、この山の前じゃァあまり変わりがねェようでやすよ〉『白蔵主』
人は過ちを犯す。ただ一瞬、生を刈り取るだけのエネルギーを放出した後の抜け殻。後から考えたってどうしようもない「それ」は、すでにその人の身体を駆け抜けてしまった。背負いきれない自責の念が歪める人格。とにかく何とか帳尻を合わせようとする。その様はまるで借金を返済するために別の借金を作るかのよう。
人は過ちを犯す。過ちの大きさは人それぞれ。側から見れば双方同等の重さの罪を犯そうと、生死を分つことがあるのは、決して明確な何かが分けたものではなく、ただあるがまま。川を流れる葉がどこかで引っかかるか、海まで行き着くかなんて誰も気に留めないように、大海を前に、人もまた同じなのだろう。
さて、死ぬ側の論理。
老衰と言っても、最期はどこかで「死にたい」と思いながら死にゆく。誰かを守るために選ぶ死もざっくり「あなたのために」を経由した、理想的な形での「死にたい」。そういう意味では、自身ではどうすることもできない災厄によって殺されるというのは、ある種最も健やかな死に方かもしれない。
人に迷惑をかけたくない。人の役に立ちたい。人に必要とされていたい。
全ては「寂しくない」心の安寧を得るため。遅かれ早かれ人は自ら死を望むようになる。
死なれる側の論理。
こちらは死ぬ側とは逆に「自身ではどうすることもできない災厄」であり「最もやるせない別れ」
「やるせなさ」と「取り返しの付かなさ」
「その人」が何を考えていたか分からない。問いかけても戻らない。永遠に答え合わせは叶わない。どうあっても後悔する。不可逆を凌駕するものはない。だから足掻く。受け入れようと、受け入れないようにと。
何はなくともその状態なのだ。自らの落ち度を自覚している場合、ここに発生するエネルギーはどん突きに行き場を無くし、その空間において青天井に膨れ上がる。
前回出したごんぎつねの話。結果的に兵十はごんを殺してしまうが、元々ごんのいたずらのせいで、兵中は死の間際の母親にうなぎを食べさせてあげられなかったし、そうでなくても日頃から村人にいたずらを仕掛けていた。兵十に限らず、村人の誰かから殺されてもおかしくないようなことをしていた。
けれども。
ごんは「ひとりぼっちの子ぎつね」だった。
自分のしたことの罪深さを知り、自分にできるつぐないをしようとした。
「神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんでくださるんだよ」と聞いて「へえ、こいつはつまらないな」と思っても、その明くる日もきちんとごんはくりを持って兵十の家へ出かけた。そこで撃たれたのだ。
そもそも「いたずら」で「殺生」が成立することの、根本の疑問は置いておくとして、
くりや松たけ。ごんにとっての食料を、それは食べ物を与える行為。その人を生かす、生きて欲しいと願った跡。自分と同じ、ひとりぼっちになってしまった兵十に。
あるいはこの作品におけるごんは、幼子をなぞらえたようにも思える。殺さずとも日々思わずカッとなってしまうこと。力ある者の身勝手。それを戒めるような。
後から気づくは「孤独を抱える生き物の不器用な主張」。その子は「どうにかして関わりたかった」感情にのまれる前、あなたは本当に耳を傾けたかと何度でも問いかける。
人は過ちを犯す。犯し続ける。
けれどもお同じくらい赦されたいとも願う。そのために他者からすれば愚かとも思う働きもする。時に帳尻を合わせ切れず「死にたい」と願うこともある。自死を選ぶこともある。そのこと自体正しいとは言えないが、あくまでその人の人生はその人のもの。それが本人の望みであったなら、此岸、あとは残された側の問題。
〈人は——生きてこそ人。それは神とて同じこと。死して後、きちんと送り届けぬは礼儀知らず。死者にも——尊厳が御座居ます〉『帷子辻』
絶望的に、人は人とは繋がれない。最後は誰しも一人になる。たった一人で自分の生と死と向き合う。人一人の人生は、誰にも理解されない。記録に残されることもなければ、その本当の思いを知る者もいない。
それが分かっているからこそ、伸ばせるギリギリまで手を伸ばす。誰かの役に立ち、「その」一部であると信じることで、自身が生きることを赦す。
ただいてくれればそれでよかった。
悲しいかな、誰がどう言ったところで、思いは伝わらない。まるでいつまでも小遣いを渡したがる祖父のように、それはどこまでも切なく、愛おしい。
人は過ちを犯す。
弱くて、不完全で、どうしようもない生き物。
そんなどうしようもない生き物同士が寄り添って手を繋ぐ。
その思いがけぬあたたかさを知って涙する。
死ぬ側と死なれる側の論理。及びその間に大きく横たわる「死にたい」と願う者の論理について。
結局それら全て〈この山の前じゃァあまり変わりがねェようでやすよ〉
時に遅刻グセは治そうにも治らない。そもそも治そうとすること自体が無駄だとひろゆきやマコなり社長が言っていたように、どうやら私には「死を受け入れる」ことができない病気のようだ。ならば必ずしも治そうとしなくていいのだろう。例え礼儀知らずと言われても、私は私にとっての真実を生きる。そう。
「今はただ会わないだけ」
雲を隔てて見えないだけ。私もいつか同じ道を辿る。どうせいつか会える。だから大して気に留めるまでもない。
きっと神さまからすれば、あるだかないだか分からないような刹那の人生。約束はその後に飛ばす。
<完>