本気で読書感想文(京極夏彦さん『巷説百物語』3)
「やるせなさ」は「取り返しのつかなさ」と親和性が高い。
もはや自分の力ではどうすることもできない。後の祭り。覆水盆に返らず。その、まるで落ちた碗から血飛沫が上がるような、時間が経っても胸の一部が膿んだままのような。不可逆。死を介さなくても関わらなければそれは終われない。仮に関わったとしても、その問題は決して完治することはない。キツく目を瞑って、治ったと自己暗示をかけたところで「それ」は静かに絆創膏から染み出す。
本書文庫本裏表紙、作品紹介として〈世の理と人の情がやるせない〉とある。この情とやら。人の心を学ぶ国語の醍醐味である。作中から抜粋しよう。
〈弥作は狐釣りの名人だった。
釣っては殺す。釣っては殺す。
喰いもした。だが喰うために釣るのではない。
売るためである。狐は、死ねば銭に化けた。
皮を剥いで市に出せば面白いように売れた〉
そんな弥作に坊主が頼み込んだ。〈お願いじゃ。もうお止めくだされ〉
殺生。屠った狐の亡霊かも知れぬと思う程に、弥作にも思うところはあった。
弥作にも目的があった。
『白蔵主』
〈悪五郎の女癖の悪さは尋常ではなかった。
気に入った娘が居ようものなら、辻取り宜しく力任せにかっ攫い、自が小屋に連れて帰っては、延延と辱めるのである。そうした時の鬼虎は博打場とは打って変わった凶暴さで、その淫気が果つるまで、娘には指一本触れさせんと、閻魔も怯える見幕で、話すは疎か近づくことも出来ぬ有様〉
そんな男にも秘密があった。
『舞首』
〈嘘ではねえ。
平助は尻を捲り、半纏を脱ぎ捨てた。
今の平助は馬飼長者の番頭ではない。ただの下男だ。
平助は主の命を救うために駆ける使用人だった〉
そうして平助が助けたかったその人は、この時既に「その人」ではなくなっていた。
『塩の長司』
〈結局、吉兵衛は十年で四人の妻を失い、流れた子を勘定に入れれば、三人の子を失ったことになる。夫婦の縁に薄かったのだと言ってしまえばそれまでなのだが、この数は幾らなんでも多過ぎるだろう〉
その、五人目の嫁に見初められたのが、語り手の幼馴染だった。
『柳女』
先日「文系はクソとか言う奴がなぜバカなのか教えてやるよ」というYouTube動画を紹介したが、この内容を最短で要約すると「理系の生み出した道具」の「正しい使い道を考える」のが文系、というものであった。文系は「目的」を見つけ、有能なものを正しく役立てようとする。
真理。道徳。こうあるべき。この方がみんな幸せだよね。
あちらを立てればこちらが立たずでも、その中でもより良い選択肢を模索する。
私が初めて物語で泣いたのは『ごんぎつね(新美南吉氏、著)』だった。幾日かは寝付く直前、最後の場面だけ反芻して、その後もふとした時に思い出しては目頭が熱くなった。
どうしてあの時殺してしまったのだろう。そんな取り返しのつかなさ、やるせなさは、いつしか胸の一部に痛みとして記憶され、いつまで経っても剥がれないかさぶたと化している。
人は過ちを犯す。それでも大切なのは、その場で感情的になってしまうのではなく、最後まできちんと話を聞くこと。別の視点からも話を聞くこと。そうしてその思い込みを思い込みであると自覚すること。
いろんな作家さんの本を読んでいると、時折同じことを言っていると気づくことがある。
主人公目線で寄り添っていたはずが、急に牙を剥かれる。このやり方に覚えがある。朝井リョウさんだ。その度にちゃんと騙されてハッとしている私は実に愚かな生徒と言えよう。
取り返しの付かなくなる前に、一度他の可能性を想定する余裕を作ること。自分自身に常に余白を持っておくこと。それだけで無駄な殺生は避けられるのかもしれない。そうでなくても傷つけずに済むのかもしれない。傷つけられた人が他の誰かを傷つけずに済むのかも知れない。
性善説と性悪説。騙すぐらいなら騙される勇気を。
考え方は人それぞれ。それでも。
損をする人にはきっと寄り添う人が現れる。
とか言いつつ私自身、それでも何だかんだ隙を見て得を選んでしまいそうなので、せめて「いいから頼れ」と寄り添う存在でいたい。