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まどろみハルシオン【2000字】



 深い眠りからまぶたを開ける直前、いつだって一瞬真っ白な絵の中を通る。
 自分が今どこにいるのか。何時で、これから何をしなければいけないのか。
 無防備な心にいつだって望む声がある。


「起きましたか?」
 揺れるレースのカーテン。
 視覚からの情報。彩る色みで時間を推測する。
 洗濯物を取り込み終わって窓を閉める、その姿を視界の端に、横になったまま口を開く。「ごめん」
 まばたき一つ、「いつもごめん」
 彼女は側に腰を下ろすと「疲れていたんですね」と言った。
 無防備な心は、無防備だからこそ、僅かな害意も見逃さない。そんな研ぎ澄まされた神経を優しくなだめる。
「寝に来ている訳じゃない」
「知ってます」
「ごめん」
「大丈夫ですよ」
 無防備な心は、まだ無防備なままでいていいのだと分かると大きく息をついた。
 眠る、という行為は食事と同じくインスタントからコースまでピンキリ。豊かな眠りはその後のパフォーマンスを上げる。否、
 パフォーマンスなどという生産性を想定したものではない。豊かな眠りは豊かな心を生む。押されてもたわんで、上手に跳ね返す。しなりは軋轢、ストレスを軽減する。自分に、関わる人に、やさしくなれる。でもだからと言って目の前にいる人をないがしろにしていい訳ではない。
 何とか身体を起こすと、ソファに寄りかかる。頭が働かない。
「今何時?」
「16時半です」
 2時間。2時間丸々寝ていた。
「眠れなくて」
 動きを止めたカーテン。暮れなずむ光の中、言い訳じみた一言に、彼女は「そうですか」と言った。

 緊張が抜けない。それは職場を、火の元を離れてなお続く感覚。一度解いてしまったら最後、なかなか元に戻れない。降りるのは簡単でも、登るにはものすごいエネルギーが必要になる。
 自宅のベッドでは、次に目を開けるときには戦闘モードでいなければならない。優秀な脳みそは、そうして眠ること自体ストレスだと条件付けた。

 月に何度か合う休み。ポツリポツリと彼女のアパートに顔を出す。ひとしきりしゃべった後、何となく察すると、彼女はクッションを残して料理を始めた。
 野菜を切る音がする。窓の外でハンガーの回る音がする。少しだけ開けた窓から風が入ってくる。優秀な脳みそは、そうしてここを安心して眠れる場所だと条件付けた。

 いつだったか彼女が「桜を見に行きましょう」と言った。桜と紅葉が同時に見られる場所があるという。その時はそんな遠い所、と思っていた。
 ある時は「浜名湖に行きましょう」と言った。腰の重い私が彼女と出かけたのは、これが最初で最後だった。
 天浜線の停車駅。絵に描いたような山奥で、カモメを意のままにあやつるおじさんを見た後、大きく西へ回る。まだ赤ん坊が彼女のお腹の中にいる時だった。

「昔、よく母が連れて来てくれてたんです」
 高速の途中で寄るサービスエリア、一般道から入れると知ったのはこの時だった。
 低い木の柵の向こうに広がる湖。なだらかな芝生の斜面に腰を下ろす。
「悲しいことがあった時はいつも。その頃学校に行きたくなくて、よく来ていました」
 遮るもののない、開けた水辺。冷たい風が吹き付ける。それでも
 水面は波立つことなく、ただ暖色をはね返していた。
「どうしても見せたかったんです」


 におい、というのは分かりやすい縄張りの主張だと思う。
 タバコ、香水。そんな人工物に頼らずとも、体臭。
 ある日を境に「そこ」は自分の立ち入る場所ではなくなった。
 原色の遊具、柔らかなカーペット。
 ホワホワした、全身にミルクを蓄えた生き物のにおいは、分かりやすく己のテリトリーを主張した。
 声未満の「音」
 意思を発する「音」
 もはやオートで口にする「おめでとう」や「かわいいね」
 その奥に沈む、ずっと幼く悲しい思い。
 ここはもう、自分の居場所ではない。
 それは妹弟の出生にも似た感覚だった。

 深い眠りからまぶたを開ける直前、いつだって一瞬真っ白な絵の中を通る。
無防備な心が、いつだって望む声。
〈起きましたか?〉
 揺れるレースのカーテン。その近くに動く影を見つけて、何度でも口にするのだ。
「ごめん」と。全くもって直す気のない不誠実さで。



 深い眠りから浮上する。
 身じろぎすると「にゃあ」という声が聞こえた。
 膝の窪みから出てきた猫は、人の身体を縦断すると、鎖骨に前足を乗せて座り込んだ。
〈起きましたか?〉
 そんな包容力のある声じゃない。
 その様子は、まるでやっと自分を見てくれる、構ってもらえるとはしゃぐ幼子のよう。
 その背中を撫でると、モーター音が聞こえてきた。

 まどろむ。
 安心に出す声。声未満の「音」意思を発する「音」
 それは再びの眠りを誘う。


 ハルシオン。


 眠りに落ちる直前、柔らかく笑うその声を聞いた気がした。

 どうか彼女がこれからもずっと幸せでありますように。








【この記事は『#眠れない夜に』をテーマに書き上げたものです】




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