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2−2、あなたではない【『地上の星』独り言多めの読書感想文】
〈「儂が名で呼ぶ女子は、姫ではない」〉
〈「姫の願いはなんでも、叶えてやりたいと思うた」〉
数年経って蓋を開けてみれば、正室である京とは別に、古くからの馴染みがいるというではないか。聞けば弾正は、何事にも朴訥に答えた。
願いをなんでも叶えてやりたいと思うのはその女子がなにも欲しがらぬためで、京を正室にしたのは〈「姫のあまりの美しさに、すべてを忘れた」〉からだと言う。気立てでも心映えでもない。何年連れ添おうと何も残っていない。縦も横もない、それは始まったばかりの点。そこで初めて京が激昂する。
〈美しさなど何の意味がある〉
思えば不可解な一文があった。京と夫婦になろうとした時、兜梅の話をしていた時のセリフ。
〈「目など、開いておっても、見ぬ者はなにも見ぬ」〉
「あの梅も、実を付けぬのであろう」の後に付け加えられた言葉。つなぎとして、なくてもおかしくない。その正体がようやくはっきりする。男は京を口説きながら恋人を想っていた。若い時分に腹の子が流れ、目が見えぬようになってしまった恋人に言いたかったことを、あろうことかそのまま京にトレースしたのだ。
口下手な男がやけにスラスラ口説くこと自体、確かに違和感があった。それもそのはず。本当に好きな相手には言えないことも、その人でなければ言えるのだ。
私のどこを気に入ってくださったのでございますか、に対して「これほど美しい髪を、見たことがない」と応えた弾正。一方、尼のように肩の下で短く切り揃えられていた恋人は、男に手を引かれながら腰を下ろし、口にする。
〈「このごろ殿は、ときおり良い香りがいたします。満開の梅の枝のような」〉
違和感。梅の花ではなく「梅の枝の香」。
先に弾正は「兜梅と申します。よい香りの花をつけますけれど」と言っていたように、通常人は「花が香る」と認識する。だからこれは婉曲な訴え。
〈「お前、良い女抱いてんな」〉
きちんと通訳するとこうなる。
梅の枝。それはどこか女性の腕を彷彿とさせる。連想されるのは重労働から解放された細腕。弾正の恋人である里桜は〈城下で、そこだけ植え込みが丁寧に刈り揃えられてい〉て、〈ずっと長く、落ち着いた暮らしが続いてきたのが遠目にも見て取れた〉屋敷に住んでいる。きっと働き者の肉のついた腕をしているのだろう。ただ里桜自身、そのことを羨んでいる訳ではない。
〈「殿が笑うて暮らしておられるのが、私にはなによりの仕合わせにございます」〉
どうして里桜を正室にしなかったのかという問いに対して、里桜が拒んだとしていた。子が流れ、盲いた自分の存在が、いずれ男の枷になると本能的に察したのだろう。そうしてその仕合わせを願った結果、男は自ら戻って来た。
〈何にも汚されず、お京は誇り高く生きてきた。それがこれほど惨めな歳月だったとは考えたこともなかった〉
たぶん京は倍ほど歳の離れた弾正を、まっこと男性としてではなく、父と兄の間くらいの気持ちで慕っていた。その関係はさりげなく描かれていて、
〈何にも汚されず〉〈ふいに目が覚めると隣の弾正の寝所へ忍んで行った──そんなときお京は弾正の太い腕につかまって、童女に戻ったように安心して目を閉じた〉
京が弾正を好いていることに変わりはない。けれどこの「好き」の内実。昔から叔父が好きで、全ての縁談を蹴ってきた京は、たぶん大人になり損ねた。その美貌から「島の秩序のために早く遠くに嫁に行け」と言われ続けてきた箱入り娘は、肉親、親族、それに弟代わりの供侍からこぞって大切にされるあまり、誰ともきちんと触れ合えなかった。そこへ来て「別に本命がいつつ縁談を受けることにした男」に嫁ぐことで、本当の意味で男性を知る機会を完全に失ってしまった。これは「子ができぬ」どうこう以前の問題。
そもそも美しさか幼さか、いずれにしても弾正が京とまっこと関係があったかすら危うい。里桜のことを考えれば弾正は自ら子を望まなかっただろうし、このこと自体、里桜が想像するような〈お前、良い女抱いてんな」〉の内実とは乖離する。
考えてみれば「姫」と呼ぶ相手を抱けるかという話。イメージしづらければ「天皇」としてもいい。人であって人でないような、半聖域に生真面目な弾正が足を踏み入れられるか。ただ「美しい」ではない。「すべてを忘れる程のあまりの美しさ」を前にした時、弾正自身ただただひれ伏したのではないか。里桜に指摘されて「そうか?」と慌てて肩や袖を嗅ぐ弾正にとって「そんなのないんだけどなあ。なんか疑うようなことがあったらごめんね」という重箱の隅案件。
結果京は子供のまま大人になってしまった。だから不義が発覚し、当の本人がそれを認めようと離縁できなかった。嫁として出た以上、子供として戻れる家などなく、どうしても庇護は必要で、このことについて弾正は「儂は何があろうと、姫を守るゆえ」としている。役割は果たす、仕事はすると言う。そう。
男は「ちゃんと仕事はするから他は自由にさせてくれ」と言っているのだ。美しさにひれ伏しながらも、自分にとって最も大事なものを常に念頭に置いている。何も持たない京は従うしかない。それが〈何にも汚されず、誇り高く生きてきた〉結果。
できたのにしなかった。これこそが弱っている時に大事な決断をしてはいけない、何よりの例。女性は経年で不利になる。一方男性は最も価値の高い期間を手に入れられる。だから始めこそ肝心なのだ。
踏み出す一歩を間違えれば、あとは間違った結果にしか辿りつかない。あの時、叔父への想いを断つためとは言え、その日初めて会ったばかりの男に嫁いではいけなかった。踏みとどまって、事情を分かった上で承諾するか、あるいはやめていれば、少なくとも万が一戦場に出向くための筋力は落ちなかった。自らの足で歩み続けることができた。
「惨め」とは己の頭で考えることができず、結果周りの思い通りに動くことで、「京には教えずとも良い」として区切られ、侮られたこと。「潔白」と「無知」は見方によればどこか似ている。ただ全ては自らラクを選んだために招いた事態。
本当の不自由は選択肢を奪われること。歩ける足がありながら、未来を限られること。