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【1、権威に噛みつき、笑い飛ばす者】独り言多めの読書感想文(京極夏彦さん『書楼弔堂待宵』滑稽)



〈孤高に、滑稽に、貫こうとするなら──必ず何かを犠牲にすることになるのだぞ〉
〈君にその覚悟はあるのかね〉


 時は徳川政権の後、薩長の藩閥政治屋の治める世の〈福沢諭吉が去年死んだ年〉
〈新しい帝國憲法とやらが一部の特権階級を利するだけのものになる可能性と強く感じて(己が発行する雑誌にて)批判〉し続けたがために、投獄され、のちに子を失い、家庭を持ち幸せに暮らす道を棄てた男。男を仮にAとする。

 最近、オリエンタルラジオの中田のあっちゃんが松本人志に物申した動画が物議を醸している。仮にAとあっちゃんを並べた時、これらは近しく見えるか、見えなければ何が違うか。先に断っておく。あくまで傾向だが、私の脳みそのつくりはあっちゃんに近い。さて。


1、メジャーとマイナーという言葉がある。多数決な世の中での分かりやすい勝敗。けれど安易な理解がためにメジャーを土台に話を進めると、それまでの歴史が歪んでしまう恐れがある。8対2で割れたなら2はあった。その場に確実にいたのだ。
 大事なのはマイナーを消しきらないこと。けれど難しい話は誰も聞かない。自分事とは思わない。だから巫山戯る。頓知を利かせる。笑わせることで聞いてもらいやすい環境をつくろうとしたのがA。このことは今回のあっちゃんの動画と対になる。

 受け手が笑っているかどうか。

 これは時間を割いてもらう側の「思いやり」の感性で、「世の感情」に大きく作用する。「何となく好きかどうか」気まぐれで、一過性で、けれどもひとたび集まれば強い力を持ち得るもの。


2、雑誌を手がけるAは、雑誌自体を〈基本読み棄て〉であり、その価値は〈如何に早く広めるか、広めるために面白可笑しく書くか──でしょうからねえ〉としている。
 情報の量、質によらない。そう考えると、雑誌はどこか日記に近い要素を内蔵する。例えば「学生時代は良かった」と大人になってから振り返ったとして、しかし当時の日記を読み返せば、日々それなりに悩んでいたことが分かる。悩みの程度、種類は違うとしても、その時の自分にとっては大事だった。それを単なる印象に括ってしまうのは、8対2の2を消してしまうのと同じ。かく言う私のmixiアカウントも閉じたまま今なお生きている。ピンポイントの日付の情報、その時考えていたことは、後々振り返ると貴重なもので、今となっては勢い余って消さなくて良かったと思える。

 時代の動きに合わせて人の心が動く訳じゃない。そんな高尚な日々を生きていない。人の心が動くのは、自分にとって重きを置くコト、モノ、ヒトが関わった時であり、時に怒り、時に悲しみ、第三者にとってどうでもいいことに一喜一憂しながら、残りの生命を燃やしている。志とやらはその先にあって、単体では作動し得ない。快不快という感情は、感情は強い。単体では力を持たずとも、日記はそんな感情を閉じ込めた宝庫だ。だからいずれ、何でもないことがまとまって「ある形」になった時、「成る」瞬間がくる。


〈見たまえ。鶴田君とやら。これはね、虚勢だよ。虚勢を張ってでも負けられんのだ〉
〈威張っていようと高潔振っていようと、一皮剥けば皆、色と慾に塗れておるのだ。余は己が滑稽であることを隠さん。そして奴等も滑稽であると示す。それだけだよ〉


 Aは志を誇る一方、弱音も吐いた。日記とまで行かずとも、生き様。この作品は1人の男の人生を記している。


〈折れずにいられるのは、まあ、どんな時も下世話に巫山戯ることが出来るからなんですなあ〉
〈操觚者は人並みの幸せを持ち得る渡世じゃあない。あんな連中と泥仕合をしている暇があったなら(子供の)顔を見ていたかったですよ。だからもう足を洗おうと思ったのです〉 
それでも
〈止められなかった〉


 言論の統制を受け、弾圧され、目をつけられ、摘発され、3年8ヶ月もの間、獄に繋がれても尚〈止められなかった〉。一方で借財は返さねばならんと絶望した。膨れ上がった借財4000円。現代換算で1円=2万円として、その額実に8000万円。とにかく売れるものを売るために〈大阪にはこの価値を判る者はおらんのですよ〉と手がけた雑誌を手に弔堂を訪れる。先にも述べたが、雑誌は本来大した価値を持たない。けれど買い手によっては変動し得る。その様は、売買を通じて「己が選んだ道は間違っていなかったか」その答えを知りたがっているようにも思えた。その相手は誰でもいい訳じゃない。

〈権力と云う刀は慥かに切れるが、その刀を持っている者はただの人だよ〉

 何となく言っていることは分かっても、正面切って「そうだ」と賛同できる人は少ない。けれど、そよいだ風に「気持ちいいですね」と言うように、ただ「そうですね」と言うような男に、安易な快不快に依らない男にこそ、評価を求めた。


3、雑誌は雑談とも似ている。半分が同じ字で構成されているというのもあるが、どちらもその場限り、インスタントの印象が強い。
 今回あっちゃんの動画に対して、相方の藤森も動画を上げた。そこから見えたのは日頃の人との関わり方。飲み会の一切を断って自己研磨に時間を割いてきたあっちゃんに対して、相方の藤森は今尚、元の事務所の先輩や俳優と良好な関係を築いている。
 行動自体、典型的な内向型外交型。これはどちらが良い悪いではなく、アンテナの向きが違うだけ。藤森は、例えば直接関わらずとも「〇〇さんが楽屋で言っていた」とか他の芸人仲間から聞いたとか「生きた情報」に強かった。単純に人に対する興味関心。結果「それ」は、あっちゃんにとってものすごく貴重な情報だった。例えその場限りだとしても、もし事前に知り得たなら伝え方がもう少し変わったんじゃないか、と思えるくらいには。

 古くから人、特に女性は噂話に余念がなかった。それは「知っていることで連動できる」から。孤立によって受ける不利益は生きづらさに直結する。それと折り合いをつけて生き延びてきた子孫が我々である。
 だから情報収集する。1人では生きられない。人は、己の心地よさだけを頼りに生きられない。それは同時に周りを不快にさせる可能性を秘めていると本能的に知っているから。あっちゃんにとっては「後ろ向きな」「愚痴ばかりの芸人仲間との飲み会」の中で、時間の無駄とも思える雑談の中で得られていたかもしれないもの。1理解していない相手に3話す訳がない。それは藤森が同じ時間軸で3知り得る関係を築いてきたために出来た差。

 最初に断ったが、私の脳みそのつくりはあっちゃんに近い。だから今回の一件は自分事として堪えた。40分、藤森にやさしく嗜められている気分だった。大事なのは「必ずしも正しいことを伝えることが正しい」訳ではなく「正しいと思ったことの伝え方で、伝えた相手にとっても正しいと思われるかどうかが決まる」こと。
 そのためにまずもって必要となるのが「何となく好き」。時間軸でマイナスに当たる部分で築き上げた関係。もうね、ここに終始すると言って過言ではない。

 聞いてもらえないと始まれもしない。だからまず耳を傾ける体勢になってくれる相手がいるかどうかで一つ目の分かれ道ができる。次いで全部聞いてもらえて初めて是非の評価を受ける。私は一般人Aだけど、何の後ろ盾もない私に、バカみたいにだらだら長文拵える私の書くものに時間を割こうとするあなたがいて、初めてこうしてさらにだらだら書き続けていられる。毎度それだけの時間に見合ったものを提供できていることを願うばかりだ。加えて、好きでやっていることの方が感情はノリやすいと思うから、あくまでついでにだが私の「好き」の感情が伝われば良いとも思う。





『書楼弔堂』収録「探書拾伍 滑稽」
 以上が76Pの短編に対する私なりの「付加価値」であります。




〈あ、あんた、そりゃそれで間違っておるぞ。それは二十冊もないのだぞ〉




「それ」は最終、操觚者の矜持がために生きた男につけられた評価。
 是非あなた自身の目でお確かめ下さい。






【参考】




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