中央構造線の神秘:古代信仰と地質学の交差点
日本列島は、東西にほぼまっすぐに「中央構造線」が走っています。
日本列島の地質を太平洋側と日本海側に二分する断層で、フォッサマグナ、糸魚川静岡構造線(糸静線)と並んで、日本列島において最も重要な地形です。
中央構造線もフォッサマグナもナウマンが発見しています
ナウマンゾウで有名ですね。
名付け親・ナウマン
エドムント・ナウマンは1854年9月にドイツのマイセンに生まれました。
ミュンヘン大学で博士号を得て地質調査事業に従事していたとき、日本に行って地質学の教授にならないかという話を持ちかけられます。
1876年に東京開成学校の教授になりました、つまりドイツのお雇い外国人です。
1877年ナウマン22歳のとき、東京大学が創設されると地質と採鉱冶金学科の教授に就任しました。
あるとき、ナウマンは地質調査旅行に出かけます。
碓氷峠を越えて中山道をとおり、浅間山へ登っています。
その後、野辺山から獅子岩をとおり平沢という集落に滞在します。
そこで目にしたのは、二千メートル級の南アルプスの山並みが壁のようにそびえ立っている光景でした。
それを見たナウマンは、なぜこのように高い山が急にそびえ立っているのか、なぜこのような大きな構造ができるのだろうと疑問に思いました。
この地形に興味を示したナウマンは、この地域を何度も訪れています。
これはフォッサマグナの発見につながりますが、中央構造線もナウマンが名づけています。
中央構造線とは
中央構造線は九州の八代から、徳島、伊勢をへて諏訪の南を通り、群馬県の下仁田、埼玉県の寄居付近でも確認された、連続し て陸地を千キロメートル以上追跡できる大断層です。
中央構造線とフォッサマグナ、糸魚川静岡構造線とは全く別ものです。
ナウマンは、本州中部の新潟県から静岡県を結ぶ大きな陥没地帯を見つけ、フォッ サ・マグナと名付けました。
フォッサマグナは、本州をまん中で真っ二つに切り離しています。
糸魚川静岡構造線はフォッサマグナの西縁の断層です。
糸魚川静岡構造線は中央構造線よりずっと後にできた断層で、中央構造線を横切っています。
それに対し、中央構造線は日本列島の創生期に形成された断層です。
中央構造線が約1億年前に原型が形成されたのに対し、フォッサマグナは約1500万年前とかなりの開きがあります。
日本列島周辺では、太平洋プレ-トが、太平洋側の海溝でユ-ラシアプレ-トの下に沈み込んでいます。
太平洋プレ-トがユ-ラシアプレ-トの下に潜り 込むときに、太平洋の方からずれてきた岩石を「そぎ削る」ようにおいていったものを「付加体」と呼びます。
この付加体が、アジア大陸の縁に沿って大きく横ずれしたものが中央構造線です。
中央構造線をはさむようにして、太平洋側を外帯(西南日本外帯)、日本海側を内帯(西南日本内帯)といいます。
西南日本を東に進むと中部地方で大きく北にカーブしているのがわかります。
そして諏訪湖周辺で交わり、一旦フォッサマグナに入ると消息をたち、関東山地あたりで復活、右肩下がりで太平洋に抜けています。
日本列島の大きな古傷である中央構造線は、いくつかの区間では今の地殻変動の力で再びずれ動き始め、それぞれが別々の活断層になっています。
それゆえ、今の活断層と地層としての中央構造線は数キロメートルのずれがある所もあるようです。
中央構造線に建つ神社
中央構造線上に神社がたくさん建っていることは以前から言われていました
よく言われる論説をまとめるとこのとおりです。
1. 地震を鎮めるため
古代の人々は、地震を引き起こす地の力を鎮めるために、中央構造線上に神社を建立したという説があります。
これらの神社は、地震を抑えるための祈願や祭祀が行われた場所として重要視されました。
神聖な力が地震の発生を防ぐと信じられていたのです。
2. 旧石器古道や鉱山ライン
中央構造線は、古代の人々が移動するための主要な道として利用されていた可能性があります。
特に旧石器時代からの古道がこのラインに沿って存在し、それに基づいて神社が建立されたとする説です。
これらの神社は、旅の安全を祈るための要所として機能し、古代の人々にとって重要な場所となっていました。
また、中央構造線は、鉄や銅、金などを産出するための資源が豊富な地域に沿っているため、古代の鉱山ラインとして利用された可能性があります。
この説では、神社が製鉄の成功や工場の安全を祈る場所として建てられたと考えられています。
古代の産業活動と宗教的な儀式が結びついた一例です。
3. パワースポット説
中央構造線は、地球のエネルギーが集中する場所とされ、パワースポットとされています。
神社がこのライン上に建てられたのは、このエネルギーを利用して神聖な力を引き出すためだという説があります。
現代でも、多くの人々がパワースポットに惹かれ訪れています。
4. 根拠なし、偶然並んだだけ
一方で、中央構造線上に神社が並ぶのは単なる偶然であり、特別な意味はないという意見もあります。
これらの神社は、地理的条件や歴史的背景により、偶然にもライン上に位置しただけという考え方です。
私見は、2の旧石器古道と鉱山ラインだろうと考えています。
特に、関西、四国の中央構造線上には鉱山がたくさんあります。
中央構造線の作った鉱山が古代の金属製品を生み出し、流通経路として断崖によって出来た古道をとおって全国に運ばれました。
その経済活動の発展を祈るために神社が人びとによって作られたと考えます。
そして、中央構造線がつくる谷は、縄文時代、さらにふるくは旧石器時代より交通路として利用されてきました。
断層部分は地盤がもろく、侵食で削られてまっすぐな谷となっていて、人々の往来がしやすいためです。
秋葉街道は長野県諏訪地方から静岡県相良地方まで中央構造線に沿って延びる道です。
ジュラ紀に形成された付加体としてジュラ紀付加体があります。
たとえば、伊吹山や、大垣市の金生山は、海山の上に成長したサンゴ礁の頂部の名残と考えられています。
伊吹山とたたら製鉄
鉄鉱産出の伊吹山地を拠点にたたら製鉄が興隆しました。
金糞岳は、製鉄のときに生じる不純物を金屎・金糞(かなくそ)と言い、鉱滓(こうさい)、スラグとも言うことから山の名前として残っています。
金生山
地名の赤坂町は、赤鉄鉱が古くから掘られていたことに由来します。
石灰岩に覆われ、石灰の産出量は日本一です。
伊吹山
伊吹山の神は「伊吹大明神」と呼ばれ『日本書紀』では大蛇とされた
日本書紀にも記されており「五十葺山」と残っています。
中央構造線も、広義のジュラ紀付加体の中にあります。
愛媛県の別子銅山は、海底火山でできた熱水鉱床がジュラ紀に海溝に沈んで大陸に底付けされた後、白亜紀に変成作用を受けて形成された鉱山と推定されています。
水銀・鉱山で結びつく空海と修験道
中央構造線上の吉野や高野山付近は水銀の産地で、縄文時代から朱を採掘していた記録や丹生神社が数多く残っています。
空海は水銀に関する知識を持って唐から帰国したと思われます。
水銀は、朱の顔料として絵画や建築物に使われ、鍍金(めっき)の材料としても利用されていました。
また、水銀が採れるところは、金も採れるということが知られていました
つまり、金を見つけるために水銀を探していたともいえます。
空海が修行したとされる金剛山や吉野も中央構造線の付近にあり、丹生氏や水銀との関係を想起させるものです。
丹生都比売神社、丹生川上神社をはじめ、伊勢神宮、二見興玉神社なども中央構造線の付近にあります。
修験道と吉野山や金剛山の水銀・鉱山が深く結び付いていることがわかります。
お待たせしました、中央構造線にある神社をいくつかご紹介しましょう。
石鎚神社
石鎚神社は、西日本最高峰石槌山を神体山とする神社です。
愛媛県西条市にある県社で別表神社です。
山麓にある口之宮、山腹にある中宮と土小屋遙拝殿、山頂にある頂上社の4社の総称です。
ご祭神の石鎚大神は、イザナギとイザナミの第二子で、アマテラスの兄と伝わります。
崇神天皇35年、石鎚の峯に神を勧請と伝わります
685年には役小角が開山、空海も修行に訪れたとされており、修験道の霊場となっていきました。
大麻比古神社
大麻比古神社は、阿波国・淡路国両国の総鎮守で阿波国一宮です。
徳島県鳴門市大麻町板東にある名神大社で旧・国幣中社です。
創建は神武天皇年間で、大麻比古神は、天日鷲命の子で、阿波忌部氏の祖と伝わります。
天太玉命の御孫・天富命が阿波忌部氏の祖を率いて移住し、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓したと伝わります。
忌部(いんべ)といえば、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族でした。
しかし、本来の朝廷祭祀は忌部氏が掌握していましたが、勢力を増す中臣氏及び藤原氏によって排除されていきました。
忌部広成は、『古語拾遺』を平城天皇に撰上し訴えましたが、状況は変わらず、歴史の表舞台より姿が消えていきました。
丹生都比売神社
丹生都比売神社は、空海へ授けた高野山の総鎮守といした紀伊国一宮です。
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある式内社で官幣大社です。
主祭神は魔除けとされる丹(朱)をつかさどり、災厄を祓う女神となっています。
空海が金剛峯寺を建立する際に丹生都比売神社が寄進したと伝わります。
高野山の入口にあり、高野山参拝前に当社に参拝するならわしがあります。
丹生の名前を持つ神社は和歌山の80数社や、全国に200社あります。
この地方は、弥生時代から古墳時代にかけて、辰砂を採掘し朱を作る技術を持った一族である丹生氏が、辰砂を求めて移り住んだ地域です。
丹生氏の勢力範囲は、辰砂が採れる中央構造線に沿った、九州、四国、紀伊半島の広範囲におよび,これらの地域には丹生神社が多数残っています。
まとめ
中央構造線は、日本列島を東西に横断する重要な地質構造であり、ナウマンによって発見されました。
この中央構造線に沿って、多くの神社や修験道の聖地が存在し、地質学と日本の宗教文化が密接に関連していることがわかります。
特に注目すべきは、中央構造線上に位置する水銀(辰砂)の産地と、それに関連する丹生神社の存在です。
空海や修験道との関わりも深く、水銀の知識が宗教的実践と結びついていました。
石鎚神社、大麻比古神社、丹生都比売神社などの重要な神社も中央構造線上に位置し、古代から続く地質と信仰の深い結びつきを示しています。
これらの神社は、日本の地質学的特徴と古来の信仰体系が融合した独特の文化を表現しているのです。