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季節のご挨拶2024 冬(追記あり)

季節のご挨拶投稿は、読み物(主にエッセイ。いわばエンタメ)が冒頭と終わりのレター部分でサンドイッチされ、そこに二度の茶菓子付きティータイムが挟まれるというハイカロリーバーガー仕様となっております。ここ1年このスタイルでご提供してまいりましたが、来年はちょっと変えようかと考えています。

年内最後の投稿です。
今回は夏の総括、スポーツの秋特集が中心です。我が季節のご挨拶史上最長となっておりますので、さっさと本題に入ろうと思います。


まずは2024年夏の総括

今年も暑かったですね/帳尻合わせ

なんだかんだ9月いっぱいは暑いというのが通例になってしまうのかと、10月にしてはやけに暖かい日に思った。昨年はアセモをこじらせたり、クーラーにやられたりと散々だったため、今夏は猛暑を凌ぐべくあらゆる対策をとった。そのかいあってか、今年はクーラーにやられることなく過ごすことができた。
アセモにはやられた。しかしこれは我が夏の通例とし、いいアセモクリームも見つけたことだし、風物詩として楽しむ方向に切り替えることにした。

昨年のこと、急に夏が終わり、慌ててしっぽを引っ込めてどこかに消えた蓮池のおたまじゃくしも、今年はずいぶん長くいた。夏の盛りに大合唱をしていたセミはカルテットになり、やがてトリオ、そしてデュオ、最後はソロとなった。ここだけ切り取れば徐々に薄れていく夏の終わりというわびさびだろう。しかしその横でこれからサナギになろうとするアオスジアゲハの幼虫がいるかと思えば、風はどこかで咲き始めた金木犀の香りを運んでくる。セミや蝶には遅れて出てくる者がいる。花や木もタイミングを外す者がいる。いるにはいて、それもいいもの(注1)だが、それにしてもごちゃ混ぜだ。ツクツクホウシの声を聞きながら、金木犀を香ることになろうとは思いもしなかった。お馴染みな風情ふぜいまで書き変えねばならぬということか。それでも二十四節気は辛うじてあてになっているようだし、我が季節のご挨拶記事存亡の危機なんてことになりませんよねと、半分以上カエルになったおたまじゃくしに聞いてみようと試みたが、すいすい泳いで逃げてしまった。まだ若かったのだろう。
金木犀が終わる頃になるとヒガンバナが咲き始めた。これは通例どおりだなとヒガンバナを鑑賞していると、今年は(咲くのが)遅かったなぁと隣で鑑賞している人が言っていた。すぐ横の用水路で餌を啄むカモのつがいに事情を聞いてみたが、小声でグヮグヮ言いながらすーっと泳ぎ去ってしまった。そんなこと留鳥に聞きなさんな、渡る奴らに聞いとくれ、とでも言っていたのだろうか。
こうなったら馴染みの鳥スポットに行くしかない、あそこであれば変わらぬ光景が待っているはずだと、川沿いに向かった。すると今まで見たことのない鳥が一羽いた。調べてみるとイソシギだった。いつだったか、とある鳥名人がシギの類は海にそそぐ河口付近にいると言っていた。とすると、このイソシギはずいぶんと上流に来たものだ。これもなにかの前触れか、シギの気まぐれか。鳥好きとしては後者であってくれると嬉しい。

草木は冬の間に春に芽吹かせる葉や花を淡々と育んでいる。冬の間は枯れたように見える枝でも内々で準備をしており、人間が春の知らせを受け取るより先に活動を始める。それは変わらぬことで、今年もそうであろうが、なにかそれとは違うことも起こっている。無理やり帳尻合わせをしているような、なんだか間に合っていない様子とでも言えばいいだろうか。
なぜこんなことを書いているのかというと、要はなんだか間に合っていないのは私も同じだったということが言いたかったからだ。夏が長かった、秋が短かったと言って、季節のご挨拶秋号を出しそびれてしまった言いわけをしているというわけだ。帳尻合わせは私も同じで、今年のnote投稿は先日の年末年始のご挨拶投稿(注2)で締め括るはずが、こうして秋号用に書いた記事と合わせて冬号を投稿することになった。
誰も言ってくれないことは自分で言うしかない。
これぞ自然とともに生きるということである。
開き直りともいう。

注1 例えば花には早咲き、遅咲きがあり、人はそれを珍しがり、愛でる傾向がある。
注2 年末年始のご挨拶&ランキング発表記事はこちらから。

コバエ対策2024

毎年夏になるとコバエ対策を講じていた。
あらゆるコバエ対策グッズを試したが、さしたる効果は分からずじまいとなった。コバエグッズにコバエがかかる前に私が手で打ってしまっていたからだと思う。結局一番手っ取り早いのは手で打つことだと分かった。来年からはコバエグッズを買うことはないだろう。
試したコバエ対策グッズの中にはハエ取り紙もあった。買ってしまった5個入りのハエ取り紙を消費するだけのために、初夏の頃に毎年1本ずつ出して天井のフックに引っ掛けてかれこれ5年、今年でようやく最後の1本となった。5年物となるとさすがに劣化していたようで、引き伸ばした際に途中で千切れたが気にせず吊るしておいた。アートに見えなくもなかった。
そんなハエ取り紙もハイキックの練習には役立った。垂れた先端部分に見事キックが命中し、やった!と思った瞬間にハエ取り紙が落ちてきて自分がベトベトになったりもしたが、その後仕掛けたゴキブリホイホイに最初にかかったのが自分(の足)だったことで、圧倒的な粘着力の差を知ることができた。ハエ取り紙の粘着力はホイホイの比ではない。洗ってもそう簡単には落ちない。くれぐれも気をつけてお使いください。

米騒動

突如やってきた米不足ではあったが、新米の季節となり、ようやくスーパーに米が並ぶようになった。並ぶには並んだが、売り場の前で「高いなぁ・・・・・・」と呟いて買わずに去る買い物客を何人か見かけた。主食とされる食品がここまで急に値上がりするとなると、小麦がどんどん売れちゃうだろうなと思った。我が家も以前より麺類を買うようになっている。
米不足の報道がされ始めた頃のニュースでは、資材費の兼ね合いだとか何とか言っていたが、そんなことを信じていた者はどれほどいただろうか。同時期に2リットルボトルの水も品薄になっていたから、西日本での備蓄行動が多少は影響していると考えるのが妥当ではなかろうか。現にそんな様なことを教えてくれたスーパーの店員さんもいるにはいた。事情はなんであれ、こういつまでも価格が高止まりしていると、人というのはあれこれ勘ぐってみたくもなるもので、そんな小話を一つ。

ある暑い日のこと、米はどこだと炎天下をノロノロと歩いていると、昔ながらの精米店があった。脱水症状で見えてしまっている幻でない。確かに店はそこにある。なぜならその道はいくつもある私のウォーキングコースの一つで、そこに精米店があることは以前から知っていたからだ。
見ると奥の棚に米袋が4つ積まれている。5キロ詰めのビニール袋だ。しかし値札がない。
するとその脇で新聞を読んでいた店主の高齢男性と目が合った。
「お主、買う気か? 値札のないこの米を買うと言うのか?」
鋭い視線はそう言っているようだった。やるかやられるかの勝負をするのかという張り詰めた空気が流れた。
「いえいえ、こちとら市場価格の闇米なんざ手が出ませんで」
そう視線で返したが、店主はなおも射るように私を捉えている。
「買うのか?」
「買えませんって」
「ならば何用だ? 冷やかしか? 押し入りか?」
「めっそうもございやせんで」
合った視線をぶちりと切って私は歩き出した。男はふんとした顔で新聞に目を戻した。
別の客と悶着があったのだろう。言い値で買えと言う店主と、なんだその商売はと言い返す客との攻防が容易に想像できた。一度や二度ではなかったかもしれない。
あれからしばらくして店の前を通ると、堂々と高値の札がついた米袋が山積みになっていた。
めでたしめでたし。

カマキリ、心ここにあらず(ゾッとした話)

夏の間カマキリが気になってしょうがなかった。そしてその原因が分かった。気になり過ぎて前回の季節のご挨拶記事(注1)のトップ画像にまでしていたわけで、こちらとしては原因が分かりよかったのだが、それと同時にぞっとすることにもなった。
気になっていた理由は遭遇率だ。結構見た。そして何より遭遇したカマキリの多くが心ここにあらずだった。こちらが近づいても威嚇するわけでもなく、なにか思いつめたように一点を見据えている。こちらに気づいてさえいないような者もいた。大きな目を覗いても何も映していなかった。

原因はハリガネムシだった。
カマキリはハリガネムシに寄生され、操られていたのだった。そうと知るに至った経緯は偶然かアルゴリズムか、たぶん後者であろうが、ハリガネムシに寄生されたカマキリについてのネット記事(注2)を読んだからだった。私はその内容にぞっとし、それからアルゴリズムに支配されている自分の状況にもぞっとし、カマキリも私も大して変わらないことを思い知った。

記事によると、ハリガネムシは産卵のために一旦水中に出ることが必要で、乗っ取ったカマキリを水に飛び込ませるのだという。そういえばトップ画像に使用したカマキリの写真も、一つは用水路沿い、もう一つは川沿いと、どちらも水辺で撮ったものだった。またぞっとしたのは言うまでもないが、腑にも落ちた。

今夏、なんとカマキリが水に飛び込む瞬間に居合わせてしまった。
カマキリは用水路を見つめ、心ここにあらず。すると急に羽を広げて飛び込み、数十センチ平泳ぎし、向こう岸に上がった。カマキリって泳げるんだなぁ、あまりの猛暑で虫も水に飛び込んでるのかなぁと呑気に見ていた私は、ハリガネムシの存在など知るよしもなかった。
虚無状態のカマキリはアスファルトの道路でも見かけた。記事にはその理由も書いてあった。カマキリは水とアスファルトの区別がつかず、アスファルトを水と勘違いして道路に出てしまっている可能性があるという。それで道に出たカマキリは寄生したハリガネムシともども車にひかれてしまうというのだから、なんともやるせない。人間界のアスファルト舗装は昆虫界ではやっかいなものなのだろう。しかし近い将来人間がアスファルト舗装をやめることはないだろうから、虫の方に学習してもらうしかないが、それも容易ではないだろう。

その後、蓮池に飛び込むバッタも目撃し、なんとバッタも泳げるのかと驚きつつも、もしやこれも奴らの仕業かと再びぞっとした。以来カマキリを見る目が変わってしまったが、かく言う私もそうと分かっていてもアルゴリズムに乗っ取られそうになっているわけで、さしあたりの対抗策はデジタル・デトックス(注3)を続けることぐらいだろうと思っている。

注1 前回の季節のご挨拶記事はこちらから。カマキリのトップ画像は今となっては納涼画像というよりホラー画像になっている。

注2 カマキリとハリガネムシの記事

注3 教育先進国フィンランドの学校で脱デジタル化の動きがあるというニュースを見た。フィンランドは先陣をきっていたぶん答えが出るのも先となったのだろうが、この舵切りの速さは見習うところだ。長時間のネット利用が原因とされる諸問題を見てもロクなことになっていないわけで、ほどほどラインをどこに設定するのかが課題のようだ。一気に傾いた分の揺れ戻しは今後あちこちで起こることになるのだろう。


ここで15分間の休憩です。

お茶は各自ご持参ください。
お茶菓子は栗大福(粒あん、甘露煮入り)です。



スポーツの秋

パリオリンピック

凄かったですねパリオリンピック、なんてことは私には言えない。なにしろ我が家にはテレビがない。観ることができないのだから、何がどう凄かったなど書けるはずもない・・・・・・と思いきや、世の中便利になったもので、断片的にではあるがネットニュースやYouTube動画で少しばかり様子はうかがい知れたから、それを書くことにする。
今般のオリンピックでは柔道のダイジェスト版をいくつか観た。試合を観た感想は、まずスピード感があった。軽量級になるほどそうだったかもしれない。心動かされた試合もあった。素人が観てもそうだったのだから、感動ポイントというは知識量だけによるのではないということで、こちらとしてはありがたかった。私の場合は心が動くと何が起こるかというと、何か創作する傾向がある。感動のあまり回転火の玉ローリング・ファイヤーボールという新技を考案してしまった。しかし、あまりにも危険な技のため試す予定はない。(注1)なにしろ消防が畳ぎわで待機する必要があるのだから。
それにしても、あのすごく狭い範囲でコンパクトに相手をくるっと回す技というのは、ベランダに干した敷布団をひっくり返す時に役立ちそうだ。特に布団の前後を入れかえる時にどことどこを持てば最小限の力でうまくできるのか、引き続き研究しようと思う。
一応物書きっぽいことも書くとすると、柔道は日本発祥の武道とあって、響きがよいなと思った言葉があった。出稽古と約束稽古。
味わいがあっていいですねぇ。

注1 先に試すとしたらハエ取り紙で練習したハイキックだろう。なにしろ5年も練習したのだから。

ウォーキング

以前の記事で、コロナ禍で早朝ウォーキングを始めたと書いた。これは歩く時間帯を早朝にずらしただけのことで、それまでもウォーキングはしていた。

ウォーキングを始めたのは7、8年前になる。始めた理由はあまりにも運動不足だったからで、その頃はまだ週に一回だけだった。ルートに遠めのスーパーを組み込んでウォーキングと買い物を一緒に済ませる方法を取り入れていた。慣れてきたら更に遠くのスーパーに行くようにしたり、もう一駅分長く歩いたりしながら徐々に歩行距離を伸ばしていった。飽きっぽい質なため、ルートもちょこちょこ変える。変えたほうが色々と発見もある。私の場合は、そういえばあの花咲いたかな、今日もあの鳥いるかなとあちこちにチェックポイントを置いて、楽しみを加えることで継続しやすくなった。そこで立ち止まって写真を撮ったり、眺めていたりするから「お散歩ですか?」と聞かれるのだろうが、なんにしろ徐々に距離を増やしていくとなぜか日数も増えていき、いつの間にか毎日歩くようになっていた。

朝歩くのであれば太陽の位置もポイントで、冬は日光を背中に受けて歩くとポカポカと温まる。一方夏は、昨今は太陽が昇りきらない時間帯であってもジリジリと焼かれるため、なるべく日陰を選ぶようにしている。

こうして歩いているうちに、歩かないとなんだか気持ち悪いと思うようになる。そうなればこっちのもので、みごと習慣化したということだ。雨の日はどうするかというと、私の場合は雨の日ぐらいは休む余裕がある。ちなみに小雨ぐらいなら決行、急な土砂降りも結構。大して誰も気にしちゃいない。
ウォーキングのよいところを挙げればきりがないから割愛するが、よくないことがあるとすれば足を痛めることだろう。私の場合、足を痛めるのは鳥関連で張り切っている時が多いため、ウォーキングだけが原因ではないが。

スポーツウェア

ウォーキングをしていますと宣言するようになったのはスポーツウェアを揃えた頃だった。それでもいまだに散歩かと聞かれることがあるのは、私という人間からはどうやってもアスリート感が出ないからだと思う。

まずは靴について。
駅伝選手がこぞって履くという苗木みたいなメーカーの飛ぶ馬ペガサスシリーズのランニングシューズを履いたことがあるが、そりゃ駅伝選手も履くわけだと納得した。歩いているというより歩かされている感覚だった。ペガサスのお陰で歩行距離はどんどん伸びていった。スポーツというのは気持ちの問題も大きいだろうから、「結構やれるんだな」という勘違いをしたままどんどん歩いた。結局歩き過ぎて足を痛め、凄いのは靴であって自分ではなかったのだと思い知り、鍼灸の先生に事情を話すと「そんなに歩いちゃだめですよ」と言われ、歩行距離を減らすことになったりした。
ほぼ毎日歩くと、ランニングシューズは1年弱でだめになる。私の場合は、靴底が削れてツルツルになるのと、かかとの内側が破れてくる。それでも外見はなんら傷んでないからと無理して履いていると、すべって転んで怪我をしたり、変な負荷がかかって膝が痛くなったりするから早めに買い替えるようにしている。
現在は新しい均衡ニューバランスのソールが厚いものを履いている。年々減りゆく関節のコラーゲンはソールの厚さで補うのがよいようだ。

スポーツウェアを着るようになったのは、川沿いを歩くようになってしばらくしてからだ。もともとこれといったハードな運動をしたことがなかった私は何を買えばいいのか分からず、まずは安価なものを試してみた。初めてスポーツウェアを着た者からすると、性能の進化なんてことは分からないが、普段着からいきなりスポーツウェアに切り替えるとその差は歴然だった。モビルスーツかと思った。コンプレッションウェアなどは特にそうだった。高価なものを購入したわけではなかったから、これがプロ仕様のウェアとなると一体どれほどのものかと想像したが、想像するだけにしている。南米の挨拶アディオスや苗木などメジャーなメーカーも一通り試したが、結局歩くだけの私にはノーブランドの安価なもので充分だった。なにしろロゴが高いんだから。

例の3足セットの5本指ソックス

以前、能の体験に参加したという記事を書いた。参加に際し白い足袋か靴下を持参する必要があり、3足セットの白い5本指ソックスを購入した。なんで三足もと思うだろうが、後々ウォーキングで履くことを見越してのことだった。どうでもいいっちゃどうでもいい話ではあるが。
そんな5本指ソックスも散々履いてすっかりヨレヨレになり(注1、閲覧注意)、歩いているうちに脱げるようになった。薄手だから夏場はよかったが冬に履くには心もとなく、涼しくなってきたタイミングで厚手の物に買い替えた。
5本指ソックスのよいところは、しっかりグリップ(注2)できるところだ。今回購入したものは足裏にシリコンの滑り止めが付いていることで靴の中で足が前滑りすることもなくなった。靴の内側の摩耗も軽減されることを期待している。

注1 文末の有料エリアにて完全にヨレヨレになる前の白い5本指ソックス画像を期間限定公開するという実験をしていましたが、現在取り下げています。需要はありませんでした。
注2 足指が地面を掴むように捉える感じのこと。

低い目標

実はウォーキング以外にもストレッチと軽い筋トレもほぼ毎日行っていて、日常的な運動はすでに習慣化されている。小さく始めたことが吉と出たのか、習慣化を目標としていたわけでもないのに難なく達成された。家事に組み込む、ついでに(今はメインで)花や鳥を見るといった、ながら運動だったこともよかったのかもしれない。
長期的な目標は極めて低く設定している。具体的には、我が家で一番重い調理器具である圧力鍋を難なく持てる筋力を維持したい、だ。圧力鍋は何も入れていない状態で約3.1キロ、何か調理すると5キロ近くになることもある。これぐらいの重さをいつまでも持てるようでありたい。ちょろいと思いきや、ところがどっこい、腕だけで持ち上げようとすると手首をやってしまう、あるいは別の古傷に負担がかかる。すると人はどうするかというと、自然に腕以外の筋力も使うようになり、なんと予定外のインナーマッスルまで鍛えられてしまう。創るのを楽しみ、おいしいと喜ばれ、筋トレにもなるという一石三鳥なのだから、たかが鍋トレとあなどるなかれ。
飯茶碗さえ重いと思うようになり、食器売り場で皿の重さを確かめたり、ネットで波佐見焼の軽い物を探したりもするが、それとこれとは別と割り切って、週に数回は圧力鍋を使うようにしている。出して、使って、洗って、ふいて、元に戻す、までするとまあまあの加重トレーニングになっている。


ふたたび15分間の休憩です。

筋トレはいいから休んでください。
ふぞろいバウムです。


Mediumからの手紙/鳩子、(財務的)付け替えを検討中の巻

Mediumからいくつか便りが届いた。
まず届いたのは、Mediumで得た収益によっては納税してもらいますよという旨を知らせるアメリカ・サンフランシスコの税務署からのド現実的な封書だった。次に届いたのはフィジー国からのメールで、フィジー国にて私が働いたとされる何らかのバイオレーションに対する罰金の支払いを命じるものだった。行ったこともないのに。それは単なるScamメールだった。続いて、あなたの書いた詩を現在編纂へんさん中の本に載せたいんですというオファーが舞い込んだ。察するに生き急いでいたようで、こちらの返事を待たずに勝手にどんどん進める爺さんで、放っておいたら連絡が途絶えた。
そんな比較的平和なMediumライフを楽しんでいたある日、Medium事務局から生成系AIを利用した投稿に関する知らせが届いた。曰く、

Medium is for human storytelling, not AI-generated writing.
Mediumは人間によるストーリーテリングのためのものであり、AIによって生成された文章のためのものではありません。

よって、

Beginning May 1, 2024, stories with AI-generated writing (disclosed as such or not) are not allowed to be paywalled as part of our Partner Program.
2024年5月1日以降、AIによって生成された文章を含むストーリーは(そう開示されているか否かにかかわらず)、弊社のパートナープログラム(Mediumの有料会員制を指す)の一環として有料化することはできません。

とのことだった。
このタイミングでそう舵を切るのかと、これについては英断だと思った。
Mediumのビジネスモデルは、記事が読まれた時間に基づいてペイが発生するようになっている。つまりそこに目をつけ今までAIでちゃちゃっと長文を生成して投稿していたユーザは稼げなくなるということだ。
吉報は続いた。
Mediumのパートナーシッププログラムの参加国(Mediumでマネタイズが可能となる国)が95ヵ国に増えたとのことだった。今はもっと増えているかもしれない。なぜ日本からはあんなに早々に撤退してしまったのか・・・・・・。

ところが、読まれた時間に基づいてペイが発生するというビジネスモデルは、せいぜい1~2分で読み終わる記事(主に詩)を投稿する私には合っていなかった。気負う必要も、合わないものにいつまでも付き合う必要もないから、先日有料会員キャンセルボタンを押すに至った。ではそもそもなぜ有料会員になったかというと、グローバル規模のソーシャルメディアを利用したことがなかったため安全度合を知りたかったのと、単純により多くの人にリーチできるから作品がより広く届くようになると思ったからだった。そもそも収益化目的で始めたわけではないが、幸いなことに有料会員をやめたとしても他条件(注1)をクリアしているため引き続き収益化は可能となっている。かれこれ1年半ほど有料会員になってみてある程度分かってきたし、これからはのんびりフリー(無料)で続けようと思う。
それで、キャンセルボタンを押した途端に何が起こったかというと、急にフォロワーとイイネが増え始めた。引きとめ作戦部隊でもいるのだろうか。

そんなこんなで、付け替えを検討中だ。
Mediumに支払っていた会員費をnoteの有料会員費に充てて、様子を見てみようかと思っている。するのであれば来年のMedium有料会員が失効するタイミングでと考えているが、ソーシャルメディアで大してソーシャライズしない一般ユーザ(私)が、noteの有料会員になっただけで何か変わるのだろうか・・・・・・と思っていたら、思ったよりソーシャライズしていた。
noteから届いたレポートによると、2024年度にいただいたスキの数が119。

対してスキした数が491。

なんと私は圧倒的なギバーGiverであった。
こちらがスキした数の内訳は、花と鳥の画像記事が9割(ほぼ反射的かつ習慣的にクリック)、その次がクリスマスマーケット(年末年始に集中してクリック)の記事になるだろうと思う。
自分も小説を書いているにもかかわらず、noteで小説を読んだことはない。ネットで小説を読むということが、求めている読書体験ではないからだと思う。

注1 Mediumでは有料会員でなくともフォロワーが100人に達すると収益化が可能になる。なんと鳩子さん、クリアしちゃっている。いやー本当によくやった。ぜひとも驚いてください。閑古鳥はどこの空。

冬の到来です

留鳥も渡り鳥も越冬の陣地を取り終えたようで、それぞれの宿場で朝早くからせわしく餌を啄んでいる。川岸で増幅工事が行われていた数年前はオオバンなど渡る鳥の居場所が変わったこともあったが、今はまた元の場所に集うようになっている。いつもの冬の営みに胸をなで下ろしているのは鳥も同じだろうか。
初冬の頃の渡り鳥は警戒心が強い。これが冬も只中となると随分と人に近寄られることに慣れてくる。写真を撮るならその時期まで待つのが得策だが、やはり目前にカモの群れがあれば、きれいだなあと写真に収めたくなる。それでこの時期になると私のスマホの写真アルバムはカモだらけになり、もはやベストショットを選べない、結局どれでもないといった状態になる。これは複数の相手に同時に好意を抱き(思い込みも含む)、誰か一人を選べないという状況に似ているかもしれない。気になっているのは羽の色とかそういう外側のスペックだけで、結局誰のことも本当に好きなじゃないという点においても。

これはと思う瞬間(シャッターチャンス)に遭遇するのは、大抵スマホをポケットにしまっている時だったりする。あせってもたもたしているうちにすっかり撮り逃すことが多い。鳥の大きな群れ(おそらくムクドリ)が複数の小さな群れと交差して渦になったり、オオタカとカラスの空中戦だったり、毛虫が金網の上で譲り合ってすれ違う光景など、どれも間に合わず撮ることができなかった。写真に残せたものといえばその顛末ぐらいだ。よせばいいのにトンビに絡んでしっかり返り討ちに合い、しょぼくれているカラスの若い衆の写真などがそうだ。

鳥の群れは大きな渦になった後、またそれぞれに分かれて解散した。
これは最後に八の字で飛び去った小さいほうの群れ。(要拡大)
譲り合ってすれ違ったあとの毛虫。
すれ違う時に少し傘を傾ける江戸しぐさ(傘かしげ)を思い出した。
ついでに、傘をかしげるどころかすぼめたが空しいだけだったことまで思い出した。
雨の渋谷だった。
トンビにやり返されて不貞腐れる若い衆。
反対側から見ると、あちこちから羽が飛び出てボサボサになっていた。


私はこうして自然(注1)に触れているつもりでいるが、市街地の自然とされるものには多少なりとも人の手が加わっているのだから、厳密に言うと自然と呼べるものではないだろう。しかし、大自然(注2)とは言えないまでも、公園や雑木林でもそこかしこで小さな世界は展開されている。目を凝らせば沢山のことが見えてくるし、そのうち目を凝らさずとも気づくようになる。そんなつもりはないのだろうが、あちら(注3)からぱっと提示されているような錯覚を覚える時もある。歓迎はされていないとしても、少なくとも拒まれてはいないような気はしてくる。
自然の中に入っていくとよいことの一つは、どうでもいいことが本当にどうでもよくなってくることだ。表面にまとわりついたザラザラがはがれてツルっとしてくるからだと思う。

注1 いわゆる一般的なネイチャーNatureのこと。
注2 ここでは広大で奥行きがある、あるいは懐が深い自然という一般的な意味合いで使用している。
注3 自然を指す。自然をあちら、自分をこちらと言っているようでは私もまだまだシームレスではない。シームレス詩人エミリー・ディキンソン氏にあやかろうと思う。
エミリー・ディキンソン氏については小説執筆にまつわるよもやまを語る『あの山 この山 よも山話』企画の『キング達のアドバイス』と題した記事で少し書いている。ぜひどうぞ。


おわりに

ここまでお読みいただきありがとうございました。
そんなあなたにお年玉と大入が雨あられのように降り注ぎますように。

今年も最後まで長丁場でした。なぜこんなに(量を)書くのかというと、曲がり過ぎながらも物書きと宣っている以上書いてなんぼだからです。来年は長いと思わせない長文を目指し、なにかしら考えます。

空気が乾燥する季節です。どこかでドカ雪も降ったとかなんとか。
火の元にお気をつけて、ついでに水回りにもお気をつけて、ツルっとすべらかな年をお迎えください。

アマビエだるま

コロナ禍の我が家で一番ツルっとしていたのはアマビエだるま(白河だるま総本舗)でした。
妖怪パワーにあやかったと言うより、単なる妖怪好き(注1)です。

注1 妖怪好きエピソードはこちらの記事へ。
目次を付けて、ちょっと加筆・修正しました。すでに読まれた方もこの機会にまたどうぞ。


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麗野鳩子 | Hatoko Uruwashino
潜っても 潜っても 青い海(山頭火風)