【短編小説】 オルタナティブ.2 (1400字)
遠い惑星に住んでいたとしたって驚きはしない。彼女が(一時的に)そこにしか存在しないとしても。
事実、当時、空の下ですれ違うことも、ドアを潜る姿さえ見かけなかった。常に、そこに彼女は座っていた気がする。入館すると自動的にそちらに向く目線。そして、瞬時に目を離す。それもきっと見透かされていた。
それから館内をうろつく。新たな小説を物色する。出会いを待つ人は眠る。今はまだ、何も言葉に過ぎない。
あの髪色を遠くから眺めた。輝く千々の線。僕に出来ることはなかった。彼女の仕事の一部として眼前に数冊を置くことしか。
恭しくバーコードを読み込み、親切に手渡された本を後生大事にトートバックに収め、行列の本棚に背を向ける。次の約束をした。それが一方的な思いに過ぎなくても、いや、過ぎないからこそ良かった。今も昔も臆病だろう。
小さな微笑みを覚えている。
カウンターに座るその姿を僕が認めた時、彼女は既にこちらを認め、繊細に笑った後だった。そう妄想していた。
湖面に鳥が波紋を残し飛び立つが如く、表情の上側に笑みはあった。僕に微笑んでくれる、いつでも見守ってくれるとまでその時、僕は信じた。強い確信があった。
今、自らに問うても答えはない。
確かめようのないことだ。
あるいは時に、本棚を並べるエンジ色の立ち姿を盗み見る。
いつしか図書館と多くの本と、彼女の存在は分かちがたく結び付いたのだろう。つまり、僕にとっての生活の、人生の全てとなった。
僕以外の全て、認識しうる愚かしさ以外の全てだ。
業務報告のように借りた本は彼女の目に触れた。当然だった。なぜか、深い満足感を得た。
孤独の道のりを見守る人がいる。そこいらを探検し、発見していく荒れ野を、共にとまでは言わないまでも遠くで見守ってくれる人。
その人は手を伸ばせば触れられる距離で、だが、僕の方は次のページを捲ることはない。
実際の、現実の、「何か」は未知の何かのままだった。依然、一つの変数は謎のままだ。
高校を辞めてから、期せずして始まった逢瀬は18の夏まで続いた。
ある時点で図書館と決別し、遠い街で暮らそうとした。無謀だったろう。ほどなく精神病院に入院した。
試みは「失敗」だった。遠くに行けるから高く飛べる訳ではないし、誰もが多くの場合、知らない街で自らの無力を知ることになる。それが若さだ。上手くやっていける人間にはついぞなれなかった。
そして22の年に二度目の入院をした。冬から春の初めまで。
僕に残されたものは殆どなかった。学歴も、職歴も、夢も、人間関係も、これっぽっちの能力さえ。
でも、生きていた。選択肢はない。壊れた玩具のように過去の習性に基づいて行動するしかない。意味も目的も知らない愚かな青年と自分を呼べるなら。この世界に生きるなら。
薬と運動不足で膨らむ体で、図書館に向かった。遅すぎた決意。惨めな自分をさらし、それが当然だと振り切るように。
約3年半振りの「帰郷」だった。
その人はいた。彼女だけを見つめた。
瞳に涙が浮かぶ。彼女の方も感極まってるように見えたが、交わされる言葉はない。何も確かめることさえない。
約束された静寂、遠くの鼓動。
見つめていた。そして、どちらからともなく去っていった。それでも彼女を抱き締めた気持ちになったのは、また別の話にしておく。
恥ずかしげもなく言うのなら初めて愛に触れた。母による包容でも、性欲の焦がれでも、誰かが書いたラブストーリーでもない。
その姿、「何か」。温かな存在。
彼女がどう感じたか、その世界を僕に描けるはずもない。全ては思い違いなのかもしれない、と思うこともある。
だが、もう、その声を、どんな声さえ聞こうとしなかった。想像しない、これが誠実さだった。
矛盾するが、自分の声だけが聞こえる。改変され、忘却されることを約束された物語だ。
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