『サキの忘れ物』(津村記久子/新潮文庫)
友達というのではないけれど、教室の中で「一人で浮く」ことが怖くて、クラスメイトと楽しくもない話に頷いたことがある。この『サキの忘れ物』(津村記久子)を読みながら、ふとそんなことを思い出した。
主人公の千春は、高校を中退した十八歳の少女だ。病院に併設された喫茶店で働いており、そこには頻繁に高校時代の友人・美結(みゆ)が訪れては、スマホやモバイルバッテリーの充電をしながらけたたましく騒いでいく。店側が提供している充電用のコンセントではなく、店内のランプの電源であるコンセントに、勝手に挿し込んでいる。
その日、店内には美結とその友人の他に、一人の女性客がいた。千春から見れば、母親よりは年寄りで、祖母よりは若く見える年代の女性で、いつも本を読んでいる店の営業時間は夜の九時までなのだが、本に夢中になっているようだった。その様子を見て、千春は心のなかで呟く。
「夢中になれるものがあってうらやましい。自分には何にも夢中になれるものがない。どうやってそういうものを探したらいいのかもわからない」
腰を上げない女性にやむなく千春が「閉店である」ことを告げると、女性は跳びはねたように驚き、何度も謝りながら店を去っていく。
そこへ美結とその友人が会計をしにレジへ来るのだが、美結がレモンスカッシュを、その友人はミルクを注文したのだが、美結は「ミルクの方はいいでしょ?」と首を傾げるのだ。金額にして、二百円。本来なら、客である側が支払うべき金額である。
だが美結は、それをまけさせようとしており、その要求が通ることを微塵も疑っていないのだ。おそらくこれまでも、こういうことがあったのだろうと読者に推測させるシーンだ。これまでの千春なら、その二百円を自分の財布から出していたかもしれない。だがこのときの千春は、頑としてそれを譲らなかった。
やがて美結は「もう来ないから」と捨て台詞を吐いて立ち去り、千春は(こんなことで唯一の友達を失うのか)と浮かぶ。
アルバイト先に連日押しかけ、無断で充電し電気を奪い、興味のない話をひたすら浴びせかけ、百円や二百円といった金額を払おうとしない。はたから見たら「都合のいいように、搾取されている相手」であったとしても、千春にとっては唯一の友達だったのだ。
そんな最中、店内に一冊の文庫の忘れ物があることに気づく。それは先ほどの女性が置き忘れていったと思われる文庫で、サキの短篇集だった。千春はあまり本を読まないため、「海外の男の人が書いた」というくらいしかわからないのだが、どうしてかその文庫を忘れ物の棚には置かず自らのトートバッグに滑り込ませてしまう。
だが結局「どれを読んでいいのか」わからず、翌日の出勤時に忘れ物の棚に戻し、その日の夜の八時頃に訪れた女性が、「落とし物はなかったか」と尋ね、無事にその文庫は女性の手元に戻る。
千春は勇気を振り絞り初めて女性に声をかけ、女性が友人の見舞いに来ていることや、本人が眠っている時間が長いため本がないと間が持たないことや、ここから家までも一時間くらいかかることなどを聞き出すのだ。
そして、女性の元に戻ったサキの文庫がどうしても気になり、遅くまでやっている書店に飛び込み店員に尋ね、ついにサキの短篇集を手に入れる。そして、また別の本へと手が伸びていくことになるのだ。
父親は家の外に女を作り家族を省みず、母親はそのことに気づきながらも、娘である千春の声に耳を傾けない。寒くなっても毛布のある場所を娘が聞いても答えず、結局千春は風邪を引いてしまう。友達は千春を便利な道具のようにしか扱わず、千春はいつも所在ない不安の中にいた。
そんな千春が、本を読む女性と知り合ったことで少しずつ変化を遂げていく。ラスト付近では、思わず込み上げるものがあった。
これは、本というものを知らなかった一人の少女が、本と巡り会う物語だ。本を読み、今はまだ理解できなかったとしても、新たなる物語へと手を伸ばすきっかけとなる物語だ。また、薄ぼんやりした不安や居心地のなさの中にいた少女が、やがて自分の道を見つけていく物語でもある。
一冊の本が、別の本を連れてくる。そんな体験ができる、素晴らしい短編だった。