『石灰工場』推薦文

 類まれなる伝聞小説であり、音楽小説であり、ウルバンチッチュ式訓練法小説である。未読の読者にウルバンチッチュ式訓練法が何かを説明する前に、まず『石灰工場』はほぼ全編にわたって間接話法で語られた小説であることを述べておかなければならない。

 妻はいつもジッキングが嫌で仕方なかった、とコンラートはフローに言っていたらしい。石灰工場が嫌で仕方なく、つまりは私が、そして私の研究が嫌で仕方なかったわけだが、それはつまり論理的な帰結を言えば自分自身が嫌で仕方なかったんだ。ジッキングが話題に上ると彼女は即座にジッキングに対抗して、トーブラッハをもちだす。結局のところジッキングを嫌がったり、研究を嫌がったりするのが習慣になっており、もはや本能的に研究を、つまり「聴力」を嫌っていたんだ。ところがある日突然、トーブラッハの影も形もなくなった、と言っていたとのことだ。そもそも妻にはトーブラッハ以外には何もない。今でもトーブラッハだけなんだ。当然のことながら、ジッキングは牢獄だ、とコンラートはフローに言った。外から見ると牢獄か、矯正施設か、刑務所か、監獄のように見える。何百年もの間、そう見えないように繕ってきた。悪趣味な装飾で繕ってきた、と言っていたとのことだ。


「言っていたらしい」「言っていたとのことだ」「言った」「言っていたとのことだ」この調子がほぼ全編にわたって続く。なぜ書かなくてもいいはずの「言った」を書き連ねるかというと、一つには読者の耳を刺激するためである。つまり音楽としての効果である。もう一つは伝聞であること、不確かであることを強調するためである。伝言ゲームを想像すればわかるが、伝聞を重ねるほどノイズや不確かさは増大し、当初のメッセージは歪められ、起源の光景は奥へ奥へと潜り込んでいく。無論そのようなアイデア自体は珍しいものではない。しかしそのようなアイデアをこれだけの執拗さで、また言語的な均整を保ち続けてかたちにできるのはおそらくはベルンハルトしかない。体力とリズム感が抜きんでているのである。 
 保険外交員の「私」が複数の関係者から聞いた話によれば、コンラートは自称科学者であるという。聴力に関する論文執筆のために買い取った石灰工場で、障害を持つコンラート夫人をウルバンチッチュ式訓練法の実験台としながら、ある日カービン銃で射殺したという。ウルバンチッチュ式訓練法とは何年にもわたってウルバンチッチュ式訓練法を観察していたヘラーが面白おかしく話していたところによれば、コンラートはコンラート夫人に自分が吹き込む文章について意識がなくなるまでコメントさせるという虐待を行っていた。コンラートは訳のわからない文章を大きな声で読み上げたり、小さな声で囁いたりしながら、ある時は短く、ある時は長く、不快な音楽を延々と繰り返すように、コンラート夫人の炎症を起こして爛れ切った左右の耳に交互に吹き込んでいた。コンラートが何を言っても反応できなくなるくらいコンラート夫人がくたくたになることも珍しくなかった。コンラートがコンラート夫人を放っておくことはなく、コンラート夫人が疲れ果てており、無感覚になっていても構わずにウルバンチッチュ式訓練法を朝の四時になるまで何時間も続けることもしばしばだったという。あるいはこれでは不十分かつ不正確で、もっと的確でもっとたくさんの引用や要約が必要なのかもしれない。実際保険外交員の「私」は何度も繰り返し繰り返し様々な人々のことばを引用し、ウルバンチッチュ式訓練法の実態について述べている。読者が疲れ果て、無感覚になっていくのも構わずに——などと書いている間にも石灰工場に関するノイズや不確かさは増大していく。殺人者は警察による二日間の捜索の末に乾ききり凍結しきった石灰工場裏手の肥溜めに潜んでいるところを発見されたという。凍死寸前まで肥溜めに潜んでいたコンラートが何を思っていたのかは、ページが進み伝聞が横溢するほど、わからなくなる。誰からも遠ざけられた闇の中で蟠っていた殺人者の心は、今こうして書いている間にもまた遠ざかっていき、闇はいよいよ深くなる。



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