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駒場「900番教室」の「900番」って何?

【この記事の内容】
・東大駒場キャンパスの「900番教室」や「101号館」の名前の由来とは?
・駒場キャンパスには「3号館」「5号館」があるのに「4号館」はない!?


現役東大生でさえおそらく誰も知らないであろう、駒場キャンパス構内にある建物の名称の謎に迫る!!!

謎多き駒場キャンパスの建物名

東京大学には安田講堂や赤門で有名な文京区の本郷キャンパスに加え、目黒区の駒場キャンパスがある。東大の1,2年生はその全員が東大教養学部前期課程という属性であり、主に駒場キャンパスに通う。
さて、その駒場キャンパスであるが、建物名に注目すると少々疑問が湧いてくる。

構内に掲示されている案内図。2024年12月5日撮影

まず、1号館、2号館、3号館……といった数字の隣り合う建物が、地理的には全く隣り合っておらず、飛び飛びに名付けられている。地図上で探す者には甚だ迷惑なことではあるが、これは狭い駒場キャンパスの中で既存の建物の間を縫って新しい建物を建ててきた歴史の結果である。

さて、問題は建物名だ。〇号館の〇に当たる数字を順に数えていくと、なんと現在の地図には4号館が存在しないことが分かる。駒場キャンパスに通う私も今初めて(!!)気づいたのだが、いくら探しても4号館がない。3号館と5号館はあるので、かつて(5号館が名付けられた当時)は4号館があったのだろう。いつの間に消えた4号館……。

次に、「900番教室」「101号館」「102号館」といった謎の3桁数字だ。「1号館、2号館、3号館…….13号館、14号館、15号館…….」と数字を重ねていると思いきや、いきなり100の位に飛んで「101」「102」さらに飛んで「900」である。こうして建物名の数字に注目すると、甚だ理解に苦しむ。

こうした駒場の奇妙な建物名は、どのような変遷を経て今このように残されているのだろうか。特に、普段から900番教室で授業を受けている私には、9この「900」の謎にはとりわけ興味を惹かれる。

講堂(900番教室)
入り口にも「900番教室」とある。


普段、駒場の東大生はやれ「次の授業、900番だ」とか、やれ「法学部の持ち出しは全部900だからね〜(苦笑)」などと「900」を自然に受け入れておきながら、その意味について何も知らないのだ!!(ボ〜っと生きてんじゃね〜よ!!)

かくいう私も900番教室がなぜ900なのかわからないので、試しにネットで検索してみた。その結果がこちら。

(2024年12月2日時点)

おっと。これはなんと無能なAI。なんの説明にもなっていない。でも、それも仕方がない。なぜなら、ネット上に900番教室を紹介する記述はあっても、「900番教室 なぜ900?」という疑問に答えるネットの記事は(私が調べた限り)何一つなかったのである。

ところで、900番教室は駒場で最も大きい大教室なので、個人的には「この900は収容人数のことではないか?」という疑いも持ったが、どうやら収容人数は600人程度らしく、900人はまず入らない。

そこで、今回は東大の構成員さえもほとんど知らないであろう駒場の建物名の謎に迫る。このnoteが、「900番教室 なぜ900?」というGoogle検索の答えになることを目指して!!


駒場キャンパス小史

何事も前提知識がないと語れない。駒場の建物名を語るにも、駒場キャンパス小史なるものを知る必要があるだろう。
そもそも、駒場キャンパスは東京大学の敷地ではなかった過去がある。1935年からの「一高」、すなわち旧制第一高等学校の時代だ。現在の駒場キャンパスの前身は、この「一高」である。今回光を当てている900番教室や、駒場博物館、1号館は、まさに一高時代の建物である。ちなみに、駒場の所属は東京帝大農学部→一高→東大教養学部と遷移しているのだが、今回は前身が一高であったことがわかれば十分だ。
一高は主に東京帝大(当時)に入る前の予備教育を施す全寮制の旧制高校で、1935年に農学部との敷地交換により本郷から駒場に移ってきた。その際に本館、講堂、図書館が建てられた。それぞれ、現在の1号館、講堂(900番教室)、駒場博物館である。なお、今でも1号館裏などのマンホールには「一高」の文字があるし、101号館の入り口付近には一高時代に関連した展示がある(2024年12月時点)。

余談だが、2024年12月3日(火)から3月28日(金)まで、駒場図書館で特別展示「1000万冊のストーリー~駒場図書館篇と一高創立150年を迎えて〜蔵書から辿る一高の歴史」が開催されている。今回のnoteの記事を作成するにあたりこの展示も参考にした。興味のある学内生はぜひ駒場図書館へ。

私は東大入学後に一高の歴史を知り、「なるほど、駒場は言わば一高のキャンパスなのか」と思っていたが、実は「駒場一高時代」(一高が駒場にあった時代)は意外と儚い。一高が駒場に来た1935年は日本が日中戦争(1937-)・太平洋戦争(1941-)に突入する直前だ。駒場一高の建造物は戦争で荒廃し、1950年には東大教養学部への統合により一高はその歴史に幕を閉じた。「駒場は一高色が強い」とよく言われるが、「駒場一高時代」そのものはほとんどが戦争の真っ只中であり、20年間もないのである。

駒場一高時代の終焉は、駒場教養学部の誕生でもあった。
次のような資料がある。

戦災の被害からまだほとんど復旧されていなかった駒場キャンパスにとって、学生急増に備えた施設の整備拡充が当面の急務となった。教養学部創立に先だち、教養学部設立委員会の施設委員会(第二特別委員会)が、必要な教室や研究室を確保するための具体案づくりに苦心した(後略)。

東京大学百年史編集委員会『東京大学百年史 部局史 4』, 東京大学出版会, 1987, p.58

旧第一高等学校は、戦時中本館および校舎の一部を陸軍に占有されたため、荒廃の極に達した。(中略)昭和二四年五月、東京大学教養学部創設の時は、旧制の一高生と一八〇〇名の学生が新たに入学してきたが、建物はわずかに本館と一号館(現在の一〇一号館)、九百番教室と図書館、それに五号館と駒場寮がぽつんと立っている惨状であった。

青木庄太郎「駒場施設史」, 『教養学部報』第一五〇号(昭和四十二年七月八日)

戦争による荒廃からのスタートである。さらに、そこに一高時代とは比にならない学生数の急増への対応という難事業が重なった。当時の駒場に関する資料を読むと、矢内原忠雄学部長を始めとして教養学部設立に立ち会った教授たちの涙ぐましい努力を知ることができる。駒場の教養学部は相当な「難産」だっただろう。
こうして駒場に設立された東京大学教養学部は、「前期教養」として東大1,2年生に教養教育を施す重要な役目を担った。このシステムは大きな変動なく現在に至っている。


建物名の変遷

一高の終焉と教養学部の誕生について確認できたところで、建物名についてみていく。駒場キャンパスの変遷は『東京大学百年史 部局史 4』内の地図資料に詳しい。以下4つの地図は、当資料からの引用である。

教養学部発足直前
(私の推測では1949年頃だろうと思う.)

教養学部発足直前とされるこの地図には、広々としたキャンパスに、建物が余裕を持って配置されている。驚くべきことに、現在の1号館・101号館がそれぞれ本館、1号館と書かれている。時計台で有名な現在の1号館は当時「本館」で、「1号館」という名称ではなかったのである。東側に連なる寄宿舎はその後の駒場寮で、2001年までこの場所に存続する(現在はコミュニケーションプラザに生まれ変わっている)。

時計台で有名な現在の1号館(教養学部発足時は「本館」)。
2023年2月撮影
現在の101号館(教養学部発足時はこちらが「1号館」)。
2024年12月撮影


1952年時点

続いて、教養学部発足「後」にあたる1952年時点の地図である。「本館」や「一号館」はそのままだが、こちらでは、「本館」北のスペースに「二号館」や「物理教室」といった新しい教室棟が見受けられる。「三号館」は寮の北側、現在の第二体育館にあたる辺鄙なところにある。
しかしながら、この地図で最も注目すべきは教養学部発足直前には「講堂」とされていた現在の900番教室が「講堂(九大)」と記述されているところである。「九大」と聞くと九州大学のことをイメージする人が多いかもしれないが、900番教室の前身はこの「九大」なのである。

「九大」についてネット上で調べてみると、次の記述が見つかった。

講堂(900番教室)
「1938年竣工。教養学部最大の教室で、座席数は656席。1960年4月の教室番号変更までは九大教室と呼ばれた。元は一高時代の倫理講堂で、文武両道を示す歴史画として小堀鞆音 (1864〜1931年)の描いた菅原道真と坂上田村麻呂の絵が掲げられていた(現在は駒場博物館所蔵)。」 〈田村隆〉

東京大学教養学部 編東京大学駒場スタイル[特設サイト](https://www.utp.or.jp/special/komabastyle/) 
2024年12月4日閲覧

やはり、九大で正しかった。この記述によれば、1960年4月に九大教室は900番教室に名称が変更されたことになる。「900」の謎を解く鍵は、"1960年4月"にありそうだ。また、では「九大」がなぜ「九」なのかも新たな疑問として浮上してくる。900番教室の頭の数字がなぜ「9」なのかは、この疑問を解決することによって明らかになるかもしれない。

1979年時点

地図の考察を続ける。こちらは1979年時点のもので、ぱっと見ただけでもキャンパス内の建物の密集度が格段に上がったことがわかる。そしてそれらは現在の駒場キャンパスの構成に着実に近づいている。
名前に注目して印象的なのは、「第◯本館」という名称だ。かつての「本館」(現在の1号館)は「第一本館」になり、西側には「第二本館」が建築されたうえ、北側のエリアは「第三本館」「第四本館」「第五本館」などと、「第◯本館」という建物群が新に整備されている。また、1952年にはあった「二号館」や「三号館」が、1979年にはその姿を消している。「四号館」「五号館」などは顕在なので、当時は「『二号館』や『三号館』がないけど『一号館』『四号館』『五号館』はある」といった具合だったのだろう。現在の駒場キャンパスには4号館がないという事実を冒頭で述べたが、こうした状態は駒場の歴史から見るとさほど不思議なことではないのかもしれない。
また、本旨とは直接関係ないが、学生会館が現在と同じ位置に建設された。サークル活動の活発化などにより学生が大学側から自治の空間として勝ち取ったのがこの学生会館であり、当時は食堂も兼ねていたようである(1960年代前半の東京大学新聞では学生会館設立をめぐる大学側と学生側の折衝が克明に記録されている)。その後は2009年に行われた学生会館(1963-)のリニューアルにより、新学生会館(1981-)との間で「新しさ」が逆転し、「『学生会館』より『新学生会館』の方がはるかにボロい」という現在の状況が生まれてしまった。

1986年時点

最後に、こちらは1986年時点の地図である。一気に建物の名称が現在に近くなる。1979年時点では幅を利かせていた「第◯本館」という名称は一切なくなり、現在の1号館がここで初めて「1号館」とされている。北側のエリアも1979年には「第五本館」「第七本館」だった部分が「5号館」「7号館」になり、ちょうど現在の駒場キャンパスと同じ構成になっている。

ところで、1979年時点での「第五本館」が1986年には「5号館」になったということは、1979年時点での「五号館」(注:1979年時点で「第五本館」と「五号館」は全く別の建物として存在していた)はどう改称されたのだろうか?
――1986年の地図では、なんとかつての「五号館」が「105号館」と書かれている(「105号館」のあたりは現在の21KOMCEE)。また同様に、第一本館の東側に位置し長らく「1号館」を名乗っていた現在の101号館は、「1号館」の名を時計台のある本館の方に譲り、自身は「101号館」と名をあらためている。ここに、まさに「101号館」「102号館」などの「100」の萌芽を見ることができる。
「本館」という名前が消え、「100」番台の建物名を登場させたこの1986年の地図は、「駒場建物名称史」とでもいうべき今回の記事にとっては非常に重大な意味を持つ。私は1979年の地図とこの1986年の地図を並べて家に飾りたいくらいだ。

「第◯本館」という名称への変更について、『東京大学百年史 部局史 4』の中に該当する記述を発見した。

第一本館・第二本館……の名称は、昭和五十七年(一九八二)四月から、すべて一号館・二号館.......に改められ、また事務課だった一号館は一〇一号館に、教職員会議室のある建物は一〇二号館と呼称が変更された。

東京大学百年史編集委員会『東京大学百年史 部局史 4』, 東京大学出版会, 1987, p.68

それにしても、なぜ「第◯本館」という名称をやめ、わざわざ「第一本館」を「1号館」にし、「1号館」を「101号館」にしたのだろうか?詳しいことは書かれていなかったので、ここからは私の推測に過ぎないが、先ほどの考察から察するに、「第五本館」と「五号館」や「第一本館」と「一号館」など、同じ数字が複数の建物を指すのは流石に勝手が悪いと判断されたのだろう。そこで、数字自体を分けるために「100」の桁が導入され、「5号館」と「105号館」のように整理された、と解することができるだろう。これで、駒場に慣れていない人でも例えば「1号館」と「101号館」を間違えることはなくなる。
ところで、この地図を用いて「幻の4号館」についても確認しておこう。1986年の地図では1979年時点で「第四本館」だった建物が「4号館」に改められることになる。位置としては「5号館」の北側である。1986年当時の5号館と現在の5号館は同じ位置にあるから、幻の「4号館」は現在の5号館北に存在していたことになる。
5号館の北側は、現在、駐車や喫煙所くらいにしか使われていない。2024年度の駒場祭に至っては廃棄物の収集場所として利用された。そんな5号館北のエリア。比較的新しい18号館とアドバンスト・リサーチ・ラボラトリーに囲まれ、学生から「5ウラ」などと呼ばれるこの謎の空き地が、まさか幻の「4号館」跡地だったとは、驚きである。

現在の5号館北。これからは「4号館跡地」に改称してはどうだろうか。
すっかり4号館の面影を失ったこの場所に、私は石碑でも建てたくなってしまった。
2024年12月撮影

先ほど紹介した部局史によれば、建物名称が一新されたのは1982年である。1982年こそ、現在の駒場キャンパスを語る上で欠かせない鍵の年なのだ。新しい建物名称に変わったことの影響はどれほどのものだっただろう。この年の駒場祭を控えた東京大学新聞第1355号(1982年11月16日)は駒場キャンパスの略図を大きく掲載している。

「本号紙面と駒場構内のごあんない」の中にはこんな注意書きが付された。

元駒場生の元々は少々御用心。今年から建物の名称が変更されている。従来の第一〜九本館がそれぞれ一〜九号館に、そして新に十・十一号館ができたため教室番号が四ケタのものが登場した。

私個人としては、「教室番号が四ケタのものが登場した」ことよりも「101号館」をはじめとした「100」の建物名が登場したことの方が「駒場建物名称史」上は重大なことだと思うのだが…….。それはともかく、この東大新聞からもわかるように、1982年こそ駒場の建物名を決する運命的な年だったのである。私はもはや1982年にタイプスリップしたくなってきた。

さて、ここまでで、「100」番台の謎と、幻の「4号館」については概ね判明した。
残る謎は、ラスボス・「900番教室」である。

900番教室よ、やっぱりラスボスはあんたか。
2023年4月撮影
900番教室の内部。
2023年4月撮影



ラスボス・「900番」の謎

ついに核心に迫るべく、1960年に目を向けよう。なぜここで1960年なのか、覚えておられるだろうか。先ほどまで見てきた駒場の地図の中で最も初期のもの、すなわち教養学部発足直前のものには、現在の900番教室が「講堂(九大)」と記述されていた。関連して、九大教室は1960年4月に900番教室へと名称が変更されたことが発覚している。

そう、900番の謎を解く鍵は1960年にある。それも、年度初めの4月だ。私は1960年4月をキーワードに、過去の東京大学新聞や教養学部報の資料にあたった。そしてついに、決定的資料を発見した!!!!!

教養学部報『教養学部報』第八五号(1960年4月12日)である。
この学部報の最後に、まさに私が血眼で探していた決定的なコーナーがあった。

「教室番号の変更」と題し、第一本館などの教室番号を付け直した旨の連絡である。このコーナーの最後の最後に「大大教室ともいうべき従来の十八大・十九大・九大教室は、それぞれ◯が二つついて」「九大教室は九◯◯番となった」とある。
なるほど、「900」番教室の「00」はとても大きな教室であることを示す記号であったのである。
ここで教室配置図をよく見ると、第一本館一階の10番教室(一大)・20番教室(二大)・30番教室(三大)や、二階の110番教室(四大)などのように、大教室を「数字+『大』」と称する規則があったことがわかる。「九大」の「大」も同じように、大教室であることを表していたのだろう。
したがって、「900番教室」の以前の名称「九大」は、いわば「第九大教室」というニュアンスだったと推測できる。
それが、1960年になって教室番号を整理するにあたり、「数字+『大』」という名称から「数字+『00』」という形に書き換えられた。こうして誕生したのが「900番教室」なのである。

ちなみに、「大大教室ともいうべき従来の十八大・十九大・九大教室は、それぞれ◯が二つついて」いるわけだから、逆にいえば、お尻に「00」が付いたらそれは大大教室なのである。三桁の教室番号は通常、101,102,103….のように1桁目が1である数字から刻む。一方、4号館が400(1桁目が0である数字)から刻み始めるのは、400番教室が大大教室であるゆえだ。

加えて、これが"教室番号の"変更であるというのはもう一つの意味がある。それは、現在の900番教室がなぜ「101号館」や「102号館」のように「900号館」とは名付けられずに、「900番教室」と名付けられるに至ったかを暗示しているということだ。
つまり、「900番」は「教室番号」として名付けられたのである。これまで見てきたように、この講堂は、かつて一度も「xx号館」とも「xx本館」とも呼ばれなかった。常に一つの「教室」として扱われてきたのである。だから講堂=「九大教室」であり、講堂=「900番教室」なのである。

これでやっと、900番教室の「900番」の謎を解くことができた。


まとめ

これにて、「駒場建物名称史」もひとまずピリオドを打つ。
ここまでの発見をまとめておこう。

  • 「101号館」は、現在の1号館がかつて「本館」ないし「第一本館」と呼ばれていた時代には、「1号館」という名称だった。ところが1982年に「1号館」の名は時計台を持つ「本館」の方に譲り、自身は「1号館」とは区別するべく「100」をつけた「101号館」となった。

  • 現在の駒場には「4号館」はないが、実は現在の5号館北の空きスペースはその「4号館」の跡地である(ぜひ「4号館ここにありき」という旨の石碑を建てるべきだ)。

  • 「900番教室」はかつて、いわば「第九大教室」のニュアンスで「九大教室」と呼ばれていた。ところが、1960年に「数字+『大』」という教室名称を「数字+『00』」という教室番号に改めることになり、「900番教室」と呼ばれるようになった。


秋薫る駒場キャンパス(建物は現在の1号館)。
2024年11月撮影



1960年に「900番教室」が命名されてから64年。
1982年に「1号館」「101号館」が命名されてから42年。

長い時を経て、今やっと「駒場建物名称史」としてその変遷をまとめ上げるに成功した。私はこの試みを達成しもはや感涙の域である。このnoteこそが世に出る初めての「駒場建物名称史」である。駒場生としてこれ以上誇らしいことはない。

ところで、深く眠っていた教養学部報第八五号は「900番教室」という変わった名称の由来を説明する貴重な資料であった。駒場図書館で眠らせていてはもったいない。是非とも駒場博物館にでも展示してはどうだろうか。


そして最後に、駒場の建物の名称に隠された背景は、あまりに認知度が低すぎる(東大生、いやもしかしたら教養学部の教授でさえ知らないのだから)。私は今回の発見の喜びを是非とも多くの人と共有したいし、「駒場建物名称史」研究の今後の発展を願ってやまない。




最後までお読みいただき、ありがとうございました

雪の日の1号館(かつての「本館」「第一本館」)。
2024年2月撮影




追記(2024年12月6日)

  • 現在の駒場には4号館がないことを強調してきたが、実は6号館もない。ただし、かつての「4号館」が現在の駒場キャンパスから綺麗さっぱり姿を消しているのに対し、かつて「6号館」があったちょうどその場所には、現在「駒場国際教育研究棟(KIBER)」がある。したがって、6号館については消滅したというよりはKIBERに置き換わったと考えた方が良いと思われる(6号館跡地に石碑を建てる必要はないだろう)。

  • 第二本館については、次の資料が参考になる。;前島志保「失われた第二本館を求めて」『教養学部報第610号』(https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/610/open/610-1-01.html

  • 本文中で、101号館入口付近に一高に関連した展示があることに触れた。次のサイトではその展示内容が公開されており、写真資料も確認できる。;東京大学東アジア藝文書院「一高中国人留学生と101号館の歴史展」(https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/projects/first-high-school-materials-archive/exhibition-101-history/

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