今、ふと思ったこと。 「名探偵」然り 「司法権」然り 「(ごく良心的な)創作者・表現者」然り 「真実に目を凝らし、それに基づいて行動する必要のある、またそうしなければ自身(自体)の存在意義の問われるモノ」とは、やはりひどく孤独な存在であるな、…と。
文芸創作とは、お御燈を灯し奉納するようなもの 明るい時は、文字通りの「昼行灯」 暗い時は、人の「道標」とも (明るい暗いは、時代性もあるかも判らないけれど、多く個人の心持ちに拠るかと) 年月の間の風雨にも消えることのなかったものは 地に在って尚、夜空の星と同等の存在になる…のかも
何で、いちいち語意や活用を調べながら、文語体での短歌を作るのか、自分でも不思議になるのですが (口語体の短歌も作っておりますが) 恐らく大きな理由は二つ、 「リズムを整え易いから」 「表現の生々しさが抑えられるから」。 ……要するに、自分はまだまだ未熟者である、ということかと。
少なくとも、創作文芸の中では、自己の主張や感情はなるべく抑えた方が、かえって相手に伝わりやすいのでは…って、今ちょっと思った。 「カメラマン」に徹する。 (ロバート・キャパや土門拳を心の師に) 「ありのまま」しか切り取れなくたって、切り取り方次第で何とでも、…って、不遜かな?
創作論というよりも、自分の好みの問題かも知れないのですが そして、私が「小説を書く人」だから思うことかも判りませんが 文芸作品における物語中の描写は 事象と心象とのあわいの細く曲がりくねった道を、攻めるように転がしていくのが面白いのではないか…と 本当にごくごくの私見です。
「心血を注いで(作品を製作する、物事に打ち込む)」って言葉があるけれども、 恐らく、あの「心血」とは、「心臓から送り出されたばかりの動脈血」、 つまりは、「生き血」のことであろう、 …という考えが、 先程、新作の校正作業から「無事生還した」際に、 ふと頭を過ぎったことでした。
ずっと思ってたことなのですが 『文豪ストレイドッグス』のタイトルの由来、大概の方が、漱石の『三四郎』に出てくる「stray sheep」を挙げておいでですが (もしかすると、もう何方か仰っているかも判りませんけれども) 『孔子家語』の「喪家之狗」の意を潜ませているのでは。
以前、「瓶詰の『練雲丹』」は、ご飯に載せて頂くよりも、味噌汁の風味付けの方が楽しめる…と思ったことがあるのですが 細かい、「でんぶ」に近いような「肉そぼろ」も、汁有りの麺類の具に使い、全体の味付けにしたほうが美味しく、しかも長い期間風味を楽しむことができる…と思いましたことです。
「芸術」について。 「絶対的な価値基準」というものは、結局、人それぞれの内にしかない。 (「『自称』目利き(特に『商売人』)の付けた格付け」なんてのは 「常識」と同じで、明日には引っ繰り返るやも判らぬ代物)。 その判断の基準となるのは、つづまるところ「その人の好み」。